131 / 225

(41)

「佐賀氏が取締役を退任した理由、解雇理由については……」    そこで潤の言葉は止まってしまった。  どう話したら良いだろう。うまく、人に伝えられる自信がない。それが躊躇いとなり態度となって外に出てしまっている自覚はあった。 「社長?」  片桐が訝しげに問いかけてくる。潤は気持ちを落ち着かせるために、密かに深呼吸を繰り返した。 「……失礼しました。  佐賀氏の退職理由については、実はかなりプライベートなことも含まれていて……。正直に言えば、私自身はもう忘れたいこともあります。だから、詳細は我が社の上層部でも一部しか知りません。もちろん、外にも出していません」  そんな前置きを一気に述べて気づけば、片桐の真剣な眼差しが向けられていた。 「一体どんな……」  ここで引かないのがジャーナリストなのだろう。  潤は覚悟を決めた。 「本音を言えば蒸し返されたくないのです。  片桐さん、マスコミの方にこのようなことを申し上げるのは正直躊躇います。  でも、先ほど言ったようにプライベートなことに踏み込みますし、本音はもう忘れたい事実です。そのあたりに充分配慮していただけますか」  潤の申し出に、片桐は即答で頷く。 「それはもちろんです」  それで少し潤は安堵した。 「絶対に約束してほしいとは言えません。でも、できれば表には出して欲しくはない」  片桐の反応が一瞬止まったのを、潤も颯真も見留めた。 「外部に……公にする場合は事前に言ってください。気持ちの準備が必要ですから」  片桐も隣の颯真の視線が厳しくなったことに気づいたようで、そんな様子を見て、納得し頷いた気配がした。 「承知しました。森生社長がそこまで仰ること。今日ここで聞いたことは他言しません。もちろん、なんからの形で外に出す場合は、事前に森生社長と颯真先生の許可をいただきます。  ただ、こちらでも一つお約束いただきたい」  潤は片桐を見る。 「なんでしょう」 「今日ここで話したことを他の報道関係者には話さないで欲しいんです。あくまでわたしだけ、ということで。……わたしが初めててですよね?」  潤はその真意を素早く察した。なるほど、互いに口を噤めば外に出るリスクは格段に下がる。  潤は頷いた。 「ええ。私は警察以外に話していません。我が社で事情を知る部下も、気軽に話せる類のものではないと分かっているはずです。  ただ、他の当事者……彼は知っています。彼にとっては、退任理由も退職理由もネガティブなものなので、そこから漏れるとは考えにくいのですが、懸念としては存在していることを承知いただきたい」  自分が言わずとも佐賀が自ら明かしてしまえば、この協定も水泡に帰す。 「分かりました。森生社長が誓って話していないという、そのお言葉を、わたしは信じましょう」  潤と片桐は互いに頷き合った。 「佐賀氏の退任理由ですが、我が社で進めていた組織改正案が、彼によって他社に漏洩したことが明らかになったためです」 「情報漏洩……」  片桐が呟く。潤も無言で頷いた。 「他社への情報漏洩に加え、手引きも行っていました。会社を乗っ取れると考えていたのではないでしょうか。……そのようなことが内部の調査で明らかになり、取締役会で解任となったのです」 「その情報を漏らしていた先、というのが」 「東邦製薬さんですね」  潤のあっさりとした回答に、片桐もなるほどと唸った。 「佐賀氏と東邦製薬は以前から繋がりがあったということですね。……とはいっても、御社と東邦製薬ではビジネス領域も社風もかなり異なるのではないかと、素人のわたしでも思うのですが……」  片桐の疑念に潤も頷いた。 「仰る通りです。私も当初耳を疑いました。同じ製薬企業ではありますが、あまりに土壌と文化が違いすぎる。そんなもの、実現するとは到底思えない、と。  彼からすれば、東邦製薬が一方的に森生メディカルを飲み込めば問題はないと思っていたのかもしれません。……そんな簡単にいくはずもないですし、経営判断としてあり得ないと思いますけどね。  おそらく、東邦製薬の大路社長にうまく丸め込まれ、彼自身がそれを信じたかった、というのもあるのだと思います。大路社長と佐賀氏は、オメガレイシストという部分では、非常に理解し合える思想を持っていたようです」  ひとは時に信じたいものしか見ない傾向はありますから、と潤が言うと、片桐は何度か頷いた。 「……納得です」 「組織改正案を進めつつ、そのような調査を進めていました。正直、オメガレイシストの経営幹部をそのままにはしておけません。取締役会で情報漏洩の証拠を提示し、解任を提議しようと思っていた矢先……」  潤は片桐を見つめた。 「私が佐賀に狙われました」 「え。社長ご自身が?」 「なんとしても阻止したかったのでしょう。実は取締役会の前にも、ちょっとした誘拐未遂はあったのです。その時は助けが入り事なきをを得たのですが、最終的には追い詰められていたのだと思います。取締役会の直前に、社長室で揉み合いになり、グランスを打たれました」 「グランス……とは、例のフェロモン誘発剤ですか」  潤は頷いた。 「ええ。私はオメガです。グランスを打たれれば、発情期は避けられません」  あの時の、佐賀を目の前にした時の衝撃と恐怖はなかなか消えない。彼の名を口にするたびに締め付けられるような痛みを変わらずに覚える。彼が与えた発情期は、最終的な結末として颯真との関係性に良い変化をもたらしたが、それとこれは話が別だ。  あの苦しみは別に、記憶として残っている。  潤は無意識で手元に視線を落とし、指を重ね合わせた。 「……大丈夫か」  気がつけば、隣の颯真の手が背中に添えられていた。大丈夫、この片割れはすべて分かってくれている。それだけで、潤は安堵できた。 「颯真……ありがと」  その手の温かみに触れ、潤は片桐を見つめる。 「招集人である私が不在となれば、取締役会は潰れると考えたのでしょう」  極力冷静に、声が震えないように潤は努める。 「取締役会の開始三十分くらい前に、彼が社長室にやって来たんです。そこでグランスが入れられた注射器を取り出したときには、……正直ここまでするのかと思いました」  それを私は、腕と脚に打たれました、と潤は呟いた。 「彼は……私に個人的な恨みがあったようです。  会社の将来を憂いていると言っていましたが、要するに目障りだったのだと思います。お前さえいなければ、といった趣旨のことを言っていた気がするので、本音ではオメガの私の下で働くことに我慢がならなかったのだろうと……」  潤は苦い笑みを浮かべた。 「自分でもオメガという性を受け入れられていなかったのに、それを他人に指摘されるのは、やぱりダメージが大きかったですね」 「潤」  颯真に優しく名を呼ばれ、潤はそれで少し慰められた。背中に添わせた彼の手に力が篭っているのが分かる。  しまったなと潤は思った。颯真はおそらく詳しい経緯を知らなかったに違いない。それは潤自身が颯真には聞かせたくなかったことだし、過去のことだと終わらせたかったから。生々しい記憶を辿らせたくはなかった。 「颯真。大丈夫、もう過去のことだ」  潤自身もそう言い聞かせ、慰めるのが精一杯だった。 「……分かってる」  視線を伏せ短く答えた颯真の様子を、片桐は無言で見つめていた。 「それで……話を戻しましょう。グランスを打たれて、森生社長は大丈夫だったんですか」  片桐が質問する。 「大丈夫ではありませんでした」  颯真の様子が気になりつつも、潤は答える。 「かなりの量を打たれたので、フェロモンの過剰投与状態で発情期に入ってしまって……。幸い取締役会は開催できましたが、発情期自体から抜けるのに一週間かかりましたし、体力とメンタルの回復には……、一ヶ月以上が必要でした」  結局は颯真と気持ちを通わせることができるようになるまで、影響は続いたようなものだった。 「潤は私が診ました」  そう言い出したのは隣の颯真。もう何も言うなと言わんばかりに、颯真の手は背中から肩に移動し、力が加わった。 「打たれた誘発剤の量がどの程度のものだったのか分りませんでしたが、使用された注射器の大きさ、さらにそれを二本となると軽視はできません。実際に血中濃度の高さはかなりのものでしたし。  もともと、潤は年末に入院する予定で、事前に薬物治療としてグランスを、別に服用していました。だから、それを含めると決して安全とはいえない量が、一気に体内に入ってしまった。  それゆえに発情期も変則的な形で始まってしまったので、かなり辛かったと思います」  颯真が早口で捲し立てる。 「……発情期とは、オメガの方にとって身体的、精神的な負担が大きいものなのですね」  片桐がそう応じた。  潤が頷く前に、颯真が頷く。 「ええ、もともと潤は発情期になると薬が効きにくい体質なんです。私は職業柄、オメガの患者さんの、とくに変則的な発情期は診慣れています。しかし、今回のは診るのが痛々しいほどでした。よく一週間で症状が治まってくれたと思うほどに。精神的なダメージが出てもおかしくはないくらいでした。  正直、私たち兄弟にとって完全に癒えた傷ではない。特に潤本人は。  思うところも多いかと思いますが、そのあたりにしてほしいと思いますね」  これ以上は聞いてほしくはないと、颯真がストップをかけた。その優しさを感じて気持ちが溢れそうになり、思わず唇を噛む。  片桐も想像以上の話であったのだろう、素直にそれに応じた。 「そうですね。お辛い経験を話してくださりありがとうございます。おかげで佐賀氏がどのような人物であるのかは、よくわかりました」 「くれぐれも気をつけてください」  潤が気遣う。 「もちろん、この話は他言はしません。……できません。  森生社長は、颯真先生と一緒にその発情期を乗り切ったんですね」 「……そうですね。颯真がいてくれて、僕は本当に救われました」  片桐の言葉に、潤は頷き視線を伏せた。

ともだちにシェアしよう!