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 あえて、有料道路を使わずに時間をかけて帰りたかったのに、夕方のピーク渋滞に巻き込まれずに、中目黒まで戻ってきてしまった。空いていてよかったです、という人の良いドライバーの言葉を少し恨めしく思いつつ、潤は料金を支払って駅前に降り立つ。  平日、陽が沈む時刻の中目黒駅。駅前の高架線下の歩行者信号が青になると、多くの人が横断歩道を行き交う。潤もその波の中に紛れ込んだ。    和泉との面談を終えて、潤は直帰した。戻っても仕事にならないと思ったから、江上にそのまま連絡をいれて、直帰の許可をとった。帰宅するなら車を回すと言われたが、それも断り、病院からタクシーに乗ってここまで帰ってきた。  潤の様子に、スマホの向こうの江上も少し驚いていたようだが、和泉の面談の案件がプライベートなことであり、ペア・ボンド療法や東都新聞社の件ではなかったことだけはきちんと伝えて通話を切る。  勘がいい秘書のことだから、すでに異変を察知しているに違いない。悔しいが隠せるとは思っていない。ただ、その異変はそのまま颯真に伝わってしまうかもしれない。  そんな心配をしている自分の器の小ささに潤は心底嫌気がさした。今、妥協したり逃げたりするわけにはいかない。しっかりしないとと気を奮い立たせる。  今夜、颯真が帰ってきたら、きちんと向き合って話し合わねばならない。  一度は自宅に向きかけた足が不意に止まる。  少しだけ、寄り道をしようと思い立つ。颯真の帰宅は夜なのだから、それまでに自分の気持ちを整えなければ。 「いらっしゃいませ。あら! お久しぶりです!」  潤が向かったのは、以前、颯真とのことで悩んでいた時に逃げるように通っていた自宅近くの半地下にあるカフェバーだ。最後に入ったのはもう二ヶ月近く前だったが、何度か話した店員が潤のことを覚えていてくれた。 「……お久しぶりになっちゃいました」  そう挨拶すると、シャツ姿の店員は首を横に振る。 「いいえ! またお越しいただけて嬉しいです。  あれ、今日はスーツ姿なんですね。お仕事帰りですか? いつもラフなお姿だったから」  そういえばと潤は思う。いつもは自宅で着替えてからこの店に向かっていた。  いつものカウンター席に案内してくれた店員に、いつものでよいですかと問われたが、首を横に振って、カフェオレを注文した。  ふっと潤は深い息を吐いて、天井を仰いだ。  森生先生のお身内の方と話をしておきたい、というのが、和泉が潤を呼び出した理由だった。    和泉は室内のソファを潤に勧めると、自身はその正面に腰掛ける。ワイシャツとネクタイに白衣姿という、いつも院内で見かける姿であるのだが、纏う空気がどこか違う。それに引きずられたのか、潤も表情を引き締めた。  一体なんの話なのだろうか。  緊張する。 「私から森生社長にこのようなことを伺うのは、順番として少しおかしいのですがご勘弁いただきたい」  和泉からの切り出しは、意外な方向だった。 「森生先生は、どなたか番と決めた方がおられるのでしょうか。番はいないと伺っています」  意外な質問で潤は面食らった。 「え。あ、はい……。いると……いや、います」  もちろん自分のことであるのだが、和泉を前にはっきりと言い切ることに躊躇いを覚えた。突っ込まれたら困るのだ。  しかし、和泉はそんな潤の迷いなどに気づくはずもない。何度か頷いた。 「そうですか。それは良かった」  どういう意味か。話の筋が見えにくい。 「あの、和泉先生。それはどういう意味なのでしょう」 「本来であれば、このようなことを私が先生ご本人を抜いて、弟の森生社長……あの、今回はプライベートなことなので、潤さんとお呼びしてもかまいませんか?」  和泉も申し出に、潤は頷いた。  ということは、颯真のプライベートについてか。 「ありがとうございます。私も、森生先生が心配なんです。本来、ご本人を抜いて話すことは有り得ないのですが、そこはお二人にもお許しいただきたい」  ますます潤には意味が分からないが、明るい話題の前置きではないことは分かる。 「和泉先生、颯真が……兄が一体何を?」 「潤さんとお二人でお住まいと伺っているので……。森生先生は、最近体調が悪いといった様子がありませんでしたか?」  潤はすぐさまに思い当たる。先週、帰宅した時に疲れたといって寝ていたことがあった。  潤が伝えると、和泉は悩ましげに腕を組んだ。 「……そうですか。自覚症状があるんでしょうね」 「なんの、ですか」  和泉は言葉を選ぶように、しばらく考えてから口を開く。 「森生先生、ずいぶんヒート抑制剤に頼っているようです。はっきり言えば、少し飲み過ぎではないかと心配しています」 「飲み過ぎ……ですか」  どう反応するべきか潤は迷った。  なぜ和泉が潤を呼び出してまで、そのような話をしてくるのかが分からない。頻繁に会っていると颯真は言っていたのだから、本人に言えばいいのだ。  そもそも颯真は自分でコントロールできているのだからと、潤には疑問しかなかった。  しかし、はたと気づく。  ……いや、本人に言っても響かなかったとしたら。颯真に自覚がなかったら?  和泉が、医師である颯真本人を通り越して、身内の潤に話しているのだ。本人には言えないほどの話、もしくは、結構な緊急性があるのではないか、と思い当たる。 「飲み過ぎ」というのも、大分表現を和らげたものではないか?  瞬きを忘れるほどに潤は一点を凝視し、脳内は最近の颯真の様子が目まぐるしく再生された。表情が自然と厳しくなる。 「和泉先生、それは一体どういう意味でしょう」  意図が潤に届いたと和泉は思ったのだろう。 「ええ。ヒート抑制剤は、アルファの医療関係者は必要な時に適宜服用しています。もちろん、一時的にオメガのフェロモンを避けるものですが、場合によっては、長期連用や、併用しても問題はないものもあります。  ただ、森生先生は、そういった抑制剤の中でもかなり強い薬を、日常的に飲まれているようだ。それが体調に影響していないか」  たしかに、疲れやすいのか寝ているときの顔色は悪いし、先日は……おそらく「とうとう」という表現になるのだろうが、寝込んでいた。  疲れだと本人は言っていた。それ以外はいつもの通りだったから、潤もそれを信じた。  ……自分のせいだ、と潤はとっさに思い、身体がこわばった。  身体の中に、脳内に響く鼓動が大きく強くなった気がした。  ドクドクドクと早鐘を打つ。  もし、颯真を追い込んで彼を失うことになったら……。  身体が揺らいだ気がした。そんなことを考えたくない。なのに最悪のことばかりが浮かぶ。  片割れに、かなりの身体的な負担を負わせていたことに、ここにくるまでまったく気がつかなかった。  きっと、自分が無邪気に颯真を煽っていたから、彼は多くの抑制剤を飲まねばならなかったのだろう。 「潤さん」  和泉に名を呼ばれ、潤は思わず顔を上げる。  大丈夫ですか、と確認され、とっさに頷く。ここで和泉に呼び止められなければ、よくない思考の深淵を覗いていたところだった。 「すみません……」 「今の時点で非常に危険で緊急性が高い、というわけではありません。そこは安心してください。  ただ、いくらアルファといっても抑制剤を用量以上を飲み続ければ、身体に異変はきたします。疲れやすくなったり、免疫力も落ちたり。……そうですね、颯真先生も最近は顔色が優れないですし、肝機能にも影響が出ているかも。  私が心配しているのは、もしかしたら、ご自分ではコントロールしているようで、できていない状態なのかもしれないということなんです」  和泉が言う。 「ご存じとは思いますが、アルファ・オメガ領域でアルファのドクターの負担が大きいというのはさまざまな意味合いがありますが、他科のドクターと比べても抑制剤を服用するケースが多く、自身でのコントロールが求められるというのがあります。  一度、患者さんのフェロモンに当てられてしまった経験があると、自然と抑制剤の量が増えたり強いものと使うようになります。森生先生がそのような状態かもしれないと懸念しています」  ドクターとしては経験豊富ですが、やはり彼はまだ若いですし……、番もいない。  和泉の言葉に、潤は項垂れた。  颯真に申し訳ない気持ちに襲われた。彼はいつも自分のことを最優先で考えてくれているのに、自分は身体の負担に思い至りもしなかった。薬屋の社長をやっているにもかかわらず。  それに、年末の辛い発情期の最中に見たではないか。颯真が大量に所持していた、森生メディカルのヒート抑制剤「スラット」を。  今考えても、連用禁忌とされるあの強い薬を、あれだけの量持っていたのはやはり普通ではなかった。 「……そうですか、年末の時点でその量を……」  潤がその話をすると、和泉は腕を組んだ。  あの時は発情期で頭が沸いていて、そこまで気が回らなかったし、その後は脳裏から積極的に消したい記憶になってしまい、颯真に問い質す機会を失ってしまった。  しばらく考えていた様子の和泉が、潤をみる。 「本来であれば順番も違うし、ここでこのような話をするのもどうかと思うのですが、私に森生先生を診察させていただきたいです。可能であれば、その番候補の方もご一緒に。  ヒート抑制剤が合っていないのかもしれないし、ご本人では判断が難しいことであれば、お手伝いしたい」  その真剣な表情に潤は少し躊躇う。 「潤さん、森生先生をそのように説得いただけないでしょうか」  潤は先ほどまでの和泉とのやりとりを思い出し、ため息をついた。  和泉が説得してほしいと潤に要望してきたということは、すでに颯真からは消極的な返事を得ているのだろう。  そうなると、説得は骨が折れる。  でも、しないわけにはいかない。  和泉は、危険で緊急性が高い訳ではないと言っていたが、そんな状態が身体に良いわけがない。  きっと颯真は、自分が和泉の診察を受け入れれば、その番候補への言及があると思い、躱しているのだろうと思う。  でも、そのようなことはどうにでもなるに違いない。和泉に颯真を診せるのは潤の中で確定事項となった。  まずは颯真の身体のことを第一に考えたい。自分を責めるのも後だ。  どうしたらいい。  目の前の難題に、潤は目頭を抑える。なにかいい方法はないものだろうか。 「お待たせしました。カフェオレです」  不意に背後から声がかけられた。  すっと差し出されたのは、マグカップに入ったクリーミーなカフェオレ。 「あ、……ありがとうございます」  潤は思わず礼を言う。 「大丈夫ですか?」  店員の気遣いに、まさに頭を抱えようとしていた自分に潤は気がついた。 「あ、平気です」  店員がマグカップを指差す。 「このカフェオレ、少しハチミツを入れて甘くしておきました」  その店員は、勝手なことをして申し訳ありません、甘いのがお嫌でしたら作り直しますと言ってくれた。  そういえばそんなことを話しただろうか。思わず店員を見ると、彼はにこっと笑みを浮かべた。 「前に少し甘いロイヤルミルクティがお好きだと伺ったので甘いのは大丈夫だろうと思いまして。  ハチミツにはリラックス効果があります。少し糖分を摂って、ゆっくり考えてみれば、お悩みにも解決策が見出せるかも」  彼には潤の懊悩が見えていたのか。 「……ええ。ありがとうございます」  ごゆっくりどうぞ、と店員が下がると、潤は提供されたマグカップを手にする。  温かい。  口に含むと、クリーミーなカフェオレに、ハチミツのとろりとした甘いコクを感じた。  温かいものが身体を伝う感触。温まる。  颯真と向き合わねばならない、と潤は腹を括る。  そしてスーツのジャケットからスマホを取り出した。

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