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 その夜、颯真は二十一時過ぎに帰宅した。  潤はカフェバーで颯真にメッセージを送っており、その時に大まかな帰宅時間を聞いていて、さらに「話したいことがある」と言い添えていた。潤が和泉とプライベートで会っていたということを、江上を通じて颯真も聞いていたかもしれないが、それが自身の体調についてだとはさすがに予想していないと思う。 「お疲れ。おかえり」  潤が颯真のところに顔を出したのは彼が部屋で着替えている時。 「おう、ただいま」  そう返事をする颯真はいつも通りの様子だ。  潤は、ドアから室内を少し覗いて、洗いたてのバスタオルを掲げた。 「ねえ、颯真。一緒にお風呂、入らない?」  その誘いは意外だったようで、颯真はワイシャツを脱ぎかけたまま止まり、驚いた表情を見せる。 「……なに?」  その反応に潤は少し戸惑う。  颯真はわずかに肩をすくめた。 「いや、月曜日なのに積極的だなーと」  潤は慌てて、バスタオルを抱えた手を左右に振る。 「違うよ! そんなんじゃなくて。  今日は、僕が颯真を労りたいんだよ」  それでも、どういう風の吹き回しだと苦笑する颯真と一緒に、洗面室に入る。  彼が帰宅する前から潤は風呂の準備を整えていた。  和泉と会ってきた話を、お風呂に入りながらしたいと思っていた。少しでも颯真がリラックスしている中で聞いてもらいたいと思ったからだ。裸の付き合いともいうし、少しでも胸襟を開いて話せたら、望む結果に近づけるのではないかと考えた結果だ。  浴槽には、保温効果が高い乳白色の入浴剤を投入した。  潤はシャワーを出してから、颯真の服を剥いてバスルームに放り込んだ。明るい浴室に二人で入るのは少し勇気も要るが、そんな恥じらいは胸の奥に押し込めた。    いつも一緒に入浴する時は、潤にボディソープはおろかシャワーヘッドさえ触らせてくれない颯真だが、今夜は「颯真を労りたい」と事前に宣言していたことで、静かになされるがまま、身体を洗わせてくれる。  颯真を浴室の椅子に座らせて、シャワーの温かい湯を精悍な背中に当てる。すると、颯真の身体から少し力が抜けた感じがした。リラックスし始めてくれているのだろうか、と潤は嬉しくなる。  こうやって一緒に風呂に入ったのは、これまで数えるほど。気持ちを通わせてから数回ほどだ。  それでも、潤は颯真がいつもしてくれるように、髪を優しく洗い、身体にボディソープの泡を纏わせる。  彼の手はいつも優しく肌を這わせる。そうやって同じように、潤も颯真の身体に手をなぞる。 「気持ちいいな……」  颯真が吐息を漏らすように呟いた。浴室は音が響くので、いつもより少し深い声色に聞こえた。それがまず聞きたかった言葉だと潤は安堵した。 「いつも颯真が僕にしてくれてることだよ」  そう返事すると、颯真が潤を眺めてふふっと笑った。 「潤を構うのが、俺の楽しみなんだ」  潤も一緒に笑った。 「偶然だね、僕もそうだよ。颯真を構うの、好きなんだ」 「今日ね、和泉先生とお会いしたんだ」  颯真の背中を泡だらけにして、背後から颯真の腕を取った。クリーミーな泡を左腕に纏わせながら、潤は本題を切り出す。 「へえ?」  颯真の反応は至って普通で、リラックスした様子。これからの話の内容について予測しているとは思えなかった。 「仕事で?」 「ううん。呼び出されて、行ってみたらプライベートなことだった」 「プライベート?」  潤は頷いた。 「うん。僕じゃなくて颯真のことだったよ」  颯真の泡だらけの背中に語りかける。 「和泉先生、颯真のことをすごく心配してるよ」  潤はそういって、右腕にも同様に優しく泡を纏わせる。そして、そのまま彼の胸を泡だらけにした。颯真は何も言わずに、なされるがままだった。  しばらくの間、沈黙が続いた。  潤は苦笑する。 「……颯真のそういう反応、めずらしいね」  颯真の全身をボディソープの泡で纏わせると、潤は再びシャワーを出して、颯真の身体に温かい湯をかける。白い泡が、彼の精悍な身体から流れ落ち、排水口に吸われていく。 「俺のことかと少し驚いた」  完全に想定外だったと颯真が苦笑した。  颯真の、水滴が滴り落ちる濡れた襟足が艶かしい。  シャワーを止めると、颯真が立ち上がる。今度は潤を椅子に座らせた。 「交代だ。俺にもやらせて」  そう宣言すると、颯真がシャワーヘッドを手にしてシャワーを出す。先程まで颯真を温めていたシャワーの湯が、今度は潤の肌の上を滑り落ちた。  颯真は、無言で潤の髪を、いつものように優しい手つきで洗う。  颯真の手で頭皮をマッサージされると、とてつもなく気持ち良くなってぼんやりとしてしまうのだが、今日はまだ話すことがあるのだからと、内心で気を引き締めた。 「……和泉先生、なんて言ってた?」  髪を洗い、その流れで身体に泡を纏わせて、颯真が静かに聞いてきた。  いつもの冷静な颯真の声なので、潤もどこか安堵する。 「颯真が飲んでるヒート抑制剤の話。もしかしたら、ヒート抑制剤を自分でコントロールしているつもりで、できていないのかもって」 「……」 「颯真が自分で判断するのが難しいのならば、コントロールをお手伝いしたいって話だった」  潤が話す間、颯真は何も言わずに静かに耳を傾けていた。しかし、手つきは優しく、いつもと変わりがないと分かる。反応が薄いが、動揺している訳でもなさそう。考えているのだろうなと思った。  身体を隅々まで洗われ、丁寧に泡を流されると、颯真の手がシャワーを止めた。手を引かれて、颯真に浴槽へ導かれる。  ファミリータイプの大きめの浴槽ではあるが、それでも大の大人が二人入ればそれなりに手狭だ。  颯真が浴槽にもたれかかり腰を下ろすと、潤はその颯真の脚の間に身体を落ち着けた。颯真の身体に背を預ける形になるが、面と向かって相対するには少し気兼ねがあって、視線を交わさないけれど体温が通じるこの距離感は、潤にとってちょうどよかった。  腰を落ち着けてから、背後で颯真はため息をついた。 「まさかお前に話がいくとはな。  和泉先生だけじゃなくて、お前にも心配をかけてしまっているな」  天井を仰いているようだ。  その口調から潤は察する。和泉と潤の心配は、颯真にきちんと届いているようだった。少し安堵した。 「颯真は、体調は平気なの?」  潤は気になっていたことを問う。和泉によるとヒート抑制剤のオーバードーズにより肝機能にも影響が出ているのではないかという話だった。きちんと検査をしないとわからないのだろうが、潤にとって大切な誰より大切なこの片割れは、いつでも健康であってほしい。 「大丈夫だよ」  当然のように颯真からそのように言われて、潤は悟った。  体調が平気なのかと問われれば、颯真はそう答えるだろう。しかし、それでは潤自身が納得はできないのだと。おそらく、颯真が検査を受けて健康であるという太鼓判が押されるまでは安堵できない。 「今の俺が大丈夫って言っても、潤は納得しないんだろうけどな」  颯真が背後で苦笑した。全くその通りだった。 「ごめんね。僕のせいで颯真に負担がかかるのが嫌なんだ」  思わず潤が謝る。これが本音なのだ。自分が近くにいるせいで颯真に負担をかけている。ならば離れれば良いという単純な話でもないため、潤もそのまま口を噤んだ。 「いや、潤のせいじゃない。これは俺のミスだ」  颯真が否定する。腰に回した颯真の腕に力が込められのが素肌から伝わった。潤の背中と颯真の胸が密着する。 「大丈夫だと思っていたんだ。でも、この間、和泉先生にお会いした時にそう指摘されて、驚いて。咄嗟に誤魔化してしまった。その後も何度か連絡をもらったけど……」  颯真にもそんな一面があるのかと、潤は意外に思う。 「多分、和泉先生は颯真のことをずっと気にかけていたんだと思うよ。颯真がアルファだから。  もともとアルファ・オメガ科でアルファのドクターは少ないし……。和泉先生が言っていたよ、ドクターとしては経験豊富でもやはりまだ若くて番もいないから、先輩として気遣うべきだったって」  和泉の言い方からすると、アルファのドクターが自分の裁量で抑制剤を使って飲みすぎるというのは、珍しいことではないそうだ。 「だから、今からでも遅くないよ。和泉先生のところに相談に行こう?」  颯真は、潤をぎゅっと抱きしめた。 「おそらく原因は、昨日今日の話ではなくてさ。おそらく十二年前の発情期を引きずってるんだと思う」  潤が初めて経験した発情期。颯真の話では、強い抑制剤を飲んでいたにもかかわらず発情する潤の香りを拾ってしまい、あわや抱く一歩手前まで行ってしまったという話。 「原因は、颯真がよく分かってるんだね」 「それでも、最近までは落ち着いていたし、コントロールもできていた。でも、お前と気持ちが通じて、父さんとやりあったあたりからかな。きっちり抑えないといけないって、これまで以上に思っていたせいか、飲み過ぎてしまったみたいだ」  一度失敗している苦い経験が、冷静な颯真のいつもの感覚を狂わせている。 「本当は和泉先生に相談したらいいんだろうけど、こういう場合、必ず番の有無とか番候補の話になるから。  番ってしまえば、大方は解決する問題だしな」  やはり、問題は弟という立場の自分なのだと潤は思う。 「僕だから……」  思わず漏らした言葉に、颯真が首を横に振る。 「違う」 「違わないよ。僕が番だから……同僚の先生には言いにくいよね。何言われるか…」 「いや、俺はいい。問題ない」  潤の言葉を遮るように、颯真が短い言葉で口を挟む。   「俺は覚悟ができている。むしろ問題はお前の方かなって思ってた」    僕? と潤は驚いた。 「お前も和泉先生と仕事してるだろ。そっちの方が心配だ。この件でギクシャクしたり仕事に支障が出たりしたら俺も悲しい」 「え、そこ?」  潤は思わず颯真の腕を解いて立ち上がり、くるりと向きを変えて、そのまま腰を下ろした。  目の前には颯真のまっすぐな視線。 「この際だからはっきり言っておくね。  もう、そろそろ颯真にもちゃんと認識を持ってほしいし」  そう前置きをした潤が、そのダイレクトな視線を受け止めて宣言する。 「僕にとって颯真以上に優先すべきことは何もないから。それを分かって?」  大事な片割れで番である颯真のこと以上に、大切に思うものなんでないのだ。 「仕事なんて、どんなことがあっても回る。例え僕と和泉先生との仲がギクシャクしたとしても、それは僕が外れて部下に任せればいいだけの話だ」  ね、颯真と潤は颯真の腰を抱く。 「大丈夫。心配しないで。信頼できる人に相談して、ちゃんと身体を労ろう? 和泉先生の力をお借りしようよ」  両腕を颯真の背中に回す。すると、颯真も、潤の胸にもたれかかった。 「……わかった」 「決まりだね」  颯真の気持ちが変わらないうちにと潤は結論づける。明日の朝にでも和泉に連絡をとり、最速の診療予約を入れてしまおうと考えた。

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