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「こんにちは、潤さん」
ドクターチェアに腰掛けた白衣姿の和泉から柔らかに挨拶される。手前の椅子には颯真が座っており、潤に視線を向けていた。
「こんにちは……」
緊張しているためか、潤は少し掠れ声で和泉に挨拶する。
「そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよ。こちらにお掛けください」
恥ずかしい。完全に見抜かれている……。
颯真の隣の椅子を和泉に勧められる。颯真も、おいで、と手を差し伸べてくれた。
颯真に腕を引かれて、潤もその席に着席した。
一体どんな話になっているのか、潤には想像がつかず戸惑うばかりだ。雰囲気は悪いようには見えないが。
落ち着かない気分で颯真を見ると、彼は潤の脚の上に手を乗せて潤を見る。
そして、小さく頷いた。
潤は訳もなく安堵した。
「潤さん、改めて森生先生を説得していただいてありがとうございます」
和泉がテーブルを挟んだ向こうから頭を下げ、礼を述べた。その丁寧な対応に潤は戸惑った。
「……いえ。こちらこそ、お話いただけて助かりました。ありがとうございます」
潤がそう頭を下げると、和泉は優しく頷いた。
「実は事後報告となりますが、森生先生の許可を得て、潤さんのデータを横浜病院から提供してもらいました。森生先生は、お身内でなおかつ番候補ということですが、ご本人への承諾が後回しになってしまい、申し訳ありません」
「颯真が大丈夫というのであれば、問題はありません」
潤は頷き、提示された個人情報の提供書類にサインをした。
改めて診察室で白衣姿の和泉を眺める。仕事で会う時とは、少し雰囲気が異なる。時折感じる鋭さはなりをひそめ、全体的に柔らかな雰囲気だ。おそらくこれが、外来で対応する「和泉先生」なのだろう。
「さて、今しがた森生先生をざっと診察させていただきました。あ、採血の結果も上がってきましたね」
どれどれと、和泉が目の前のデスクトップを覗き込む。その横顔を潤は見つめるが、真剣に見つめるその視線はどこか厳しく、胸がドクンと高鳴った。
和泉は無言で、その結果をプリントアウトし、テーブルに提示してくれた。
すると、今度は颯真がわずかに唸った。己のことととはいえ、ひと目で診断がついてしまったらしい。
潤も覗き込む。検査結果と題されたそのシートには、数十種類の検査項目が並び、数値が記載されている。上部には颯真の名前が記されていた。異常値には数値の横に「H」や「L」といったマークが記されるようで、その中の項目にいくつか「H」のマークがついていた。
「森生先生は、ご自身でもお分かりだと思いますが……」
和泉が切り出す。
「ええ。このように明解に数値として出されてしまうと、何も言えませんね」
隣を見ると、颯真も難しそうな表情をしている。
潤は静かに見守ることにした。
「ちょっと様子を見るという数値ではないので、ヒート抑制剤の服用はとりあえず止めましょう。
職務上服用する分は問題ないはずですが、一度身体から薬剤を出して、肝機能を正常に戻してから、改めて組み立てましょう。
可能であれば仕事も休んだ方がいいと思うのですが、それは難しいですよね。できれば、負担になりそうな救急対応や外来は避けてほしいんですが……」
しかし、和泉は颯真の表情を窺って、頷く。
「……それは難しいかもれしれませんね」
「すみません。横浜病院の方もぎりぎりで回しているので、相談してみます」
颯真も腕を組んだ。
「いえ、もちろん承知しています」
「ならば少しアプローチを変えましょう」
和泉がそう言い出した。
「潤さんの発情期は……聞けば、来週だったかと」
和泉の問いかけに、潤は頷く。
「あ、はい。一週間後と聞いています」
「お二人で過ごされるんですよね」
「はい」
「ならば、その期間を使って抑制剤の服用を止めましょう」
その言葉に潤は驚いた。
たしか、颯真は自分はヒート抑制剤でコントロールしながら、潤の発情期を過ごすと話していた。抑制剤なしで潤の発情期に飲まれたら理性が吹っ飛んで頸を噛んでしまいそうだとも言っていたのを記憶している。
颯真が抑制剤を飲まないで発情期を過ごすとは、頸を噛まれて番となってしまう可能性があるのではと思ったのだ。
「あの、でも今、僕たちは番うわけにはいかなくて……」
潤が慌ててそう言うと、和泉は頷いた。
そしてちらりと颯真を見た。颯真は硬い表情を浮かべているが何も言わない。
「ええ、もちろんです。番契約を結ぶことを想定していない発情期でも、抑制剤を飲まずに越えることは可能です」
和泉の言葉に潤は驚く。
「本当に?」
なんの捻りもないストレートな問いかけに、和泉は少し心配げに潤の隣に視線を移す。
「森生先生は想像がついているのではないかと思うのですが……」
そう前置きをした。颯真は無反応だ。
「発情期の間は、潤さんがチョーカーを着ければ問題はないでしょう。森生先生が誤って項を噛むことはない」
「僕が、チョーカーですか?」
それは意外な提案に思えた。頸を保護するためにオメガがチョーカーを自衛手段として選択していた時期はかなり前だ。今は抑制剤が発展したため、ひと目でオメガと分かるチョーカーは、自衛手段としては有効ではなく、ほとんど使われていない。ベータがファッション目的で、オメガのチョーカーを模したものを着けているのを見かける程度だ。
「ええ」
しかし和泉は頷く。
「医療用のものがあるのです。あまり知られていませんが。
特殊な素材で作られているので、ファッションチョーカーより頑丈です。特徴的なのは脱着には医師の診断が必要であるという点でしょうか」
健康保険内で賄われる医療用具で、医師の診断により発情初期とされたオメガの頸部に装着し、発情症状が消失したという診断が下るまでは外すことはできないものだという。装着時に使用されるカードキーは、主治医のみが所有するという。
「そんなものがあるんですね……」
潤が単純に驚くと、和泉が苦笑した。
「アルファとオメガ双方の抑制剤が多く出回るようになって、減りましたけどね。でも、これならば森生先生が抑制剤を飲まずとも発情期を越えることは可能です。……森生先生が気が乗らないのはわかりますが」
潤が隣を見ると、颯真はさきほどと変わらずに厳しい表情を浮かべていた。
「発情期におけるチョーカーの装着はオメガの方にとってはひたすら手間ですし、精神的な負担も少なくない」
発情期にずっとチョーカーを着け続けるのは多大なストレスにもなりかねない。そして発情期の前後に受診するのも負担がある。
「ただ、そうまでしても、森生先生の抑制剤は抜かないとならないと思うんですよ。この数値を見てもね」
和泉は検査結果のシートを、指で静かにトントンと叩いた。
「例えば、発情期の直前に受診をして、その時に私が飲む抑制剤を和泉先生に選んでいただくわけには……」
颯真の提案に和泉は首を横に振る。
「難しいと思います。まずはやはりすっきり薬を抜く期間が必要です」
珍しく颯真が食いついているのを和泉が嗜める。
「森生先生、潤さんへの負担の心配はわかりますが、まずはご自身のことを。抑制剤に頼らずに発情期を乗り越えて再び検査をすれば、数値はおそらく落ち着いてくるでしょう。そうしたら、少しずつコントロールしていきましょう」
潤は颯真の背中に手を添える。
「颯真、僕は大丈夫だから。和泉先生がおっしゃるようにしよう?」
颯真は悩ましげな表情を浮かべていた。
「森生先生のお気持ちはよく分かるんです。私ももし森生先生の立場だったら同じことを考えます。発情期ともなると、オメガはフェロモンに支配され、精神的にも肉体的にも変化が起こる。可能な限り番には負担を負わせたくない。
でも、発情期は番が二人で乗り越えるものですよ」
和泉の言葉に潤もハッとする。その通りだ。
潤は咄嗟に、和泉先生、と呼びかける。
「先程の話で結構です。颯真の負担を、僕が少しでも背負えるならば、問題は……」
「潤」
颯真の言葉が潤の言葉を遮る。
しかし、潤も引き下がるつもりはなかった。
「大丈夫。これまで颯真が背負ってきたものを、僕にも背負わせて」
ここまで来てしまったのは、颯真が一人で背負ってきたものが大きかったからだ。
自分はオメガとして、アルファに守られるだけではない。支え合い、時には颯真を守りつつ、共にに生きていくものだと、潤は考えている。それは、颯真も同じであるはず。
譲る気はないと颯真に真っ直ぐに見つめる。
「潤……」
「森生先生、潤さんもそうおっしゃっていますし、今は体勢を整える時期と捉えましょう。
互いを想い合い、支え合う。お二人はとてもいい関係だ」
二人のやりとりを眺めていた和泉が、そう言った。
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