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「この店、懐かしいな」  腰を落ち着けた和真が店内を見渡す。ジャケットを脱いで、隣の椅子の背もたれに掛けた。少しリラックスしているのかなと潤は思う。 「何度か来たよね。母さんと颯真と四人で」  潤も肘をついてやはり店内を見上げた。印象的なアーチ状の天井になっており、このやわからかいライトの下で、茗子の仕事が終わるのを待ち、一緒に夕食を囲んでから帰宅したものだった。  ここもまた森生の思い出の場所である。幼い頃、東京で外食をするというと、森生メディカルの本社が最寄りとなる品川駅周辺の店がなにかと多かった。あの頃は、社長に就任してしばらくして落ち着いていた和真よりも、圧倒的に茗子の方が多忙だった。  この店がオープンしたのは、母の茗子が社長に就任してしばらくしての頃で、よく休日出勤していた茗子を迎えに行こうと、当時小学生だった潤と颯真、そして和真の三人で品川まで迎えに来たのだ。  自宅から、車ならば有料道路を使えばすぐ、電車でも横浜駅でJRや京急線に乗り換えればさほどに時間がかからない距離だ。  今日、和真がシーフードカレーを食べたいとこの店を指定してきたのは、父子の思い出の場所にすることで、穏やかに話したいという意図があるのではないかと、潤は期待していた。もちろん、穏やかな雰囲気で話すことが問題の解決に直接繋がるわけではないのだが、最後まできちんと話を聞いてもらいたいという気持ちがあった。 「今日、父さんとこの店に行くって颯真に話したら、なんだか羨ましそうな顔をしていたよ」  潤がさりげなく颯真の名を出してみる。和真はははっと笑い声を出した。 「あいつもここのカレーを気に入ってるもんな」  颯真は元気か、と和真が問うてきた。潤は頷く。積極的に様子を聞いてくるでもなく、無視をするわけでもなく、いつもとあまり変わりがないやりとり。潤は少し戸惑っていたが、普段と変わりがないように、元気だよ、と努めて答えた。  和真に変化がみられないので、どう話を切り出して良いのか潤にも判断がつかない。  今日、和真と会うことを颯真にもあらかじめ話していた。颯真は、潤と和真が二人で会うことを心配していた。ひどい言葉で傷つけられるのではないかと懸念している様子だった。それくらい一ヶ月前の和真は容赦がなかったし、颯真にとっても激烈な経験だったのだろう。しかし、潤自身はなんとなくそのようなことにはならない気がして、心配する颯真を宥めてここにきていた。 「今日は、父さんにもはっきり言っておこうかなって思ってさ」  シルバーを用意してくれた店員が去って、あたりに人いなくなると、潤は本題を切り出した。 「なんだ」  和真はテーブルに肘をついて、手を組んだ。待ち構える仕草のように思えた。  しかし潤は、茗子に話した時よりも緊張をしているようには感じていなかった。先日赤の他人である和泉に、この関係性を受け入れてもらえたことが、一つの大きな自信になっているような気がした。  潤も心なしか背筋を伸ばす。せめて、簡潔に、躊躇いを見せずに言い切りたい。 「なんと言われようと、颯真は僕の番だから」  それを聞いて、和真は静かに何度か頷いた。この話が持ち出されると当然想定していたのだろう。静寂をもって受け止められ、潤は思わず息を詰めた。  どのような切り返しがくるか。和真の反応は予想がつかない。 「……母さんにもそう言ったと聞いた」  潤の脳裏には、奥鎌倉の瑤子のレストランで交わされたやりとりが思い浮かぶ。 「うん。聞いてたんだ」 「おおよそな」  両親は多忙ながらもやはりコミュニケーションを欠かさない。潤が茗子に語ったことは、父和真にも伝わっているのだろうと、当然思った。 「この前、話した時は、どうしても父さんと母さんに僕の決意を全て伝えることができた気がしなくて……」  すると和真が頷いた。その口調はどこか穏やかだ。 「母さんは、お前の変化に驚いていたよ」  変化。たしかに、変わった自分を、潤は茗子に見せることができた気がしていた。だから、茗子も真剣に向き合ってくれたのだと思う。 「僕も不思議だよ。自分の番が颯真だと自覚したとたん、驚くような気持ちが溢れてきた」  オメガという性を受け入れられた。オメガで生まれてきて良かったという、初めての心境に触れることもできた。 「なあ、潤。俺と母さんは、ひょっとしたら潤は番を作らない人生を選ぶかもしれない、と話していたことがある」  茗子は潤がオメガを受け入れられないのであれば、男性としてベータの女性と結ばれる選択肢もあると言っていたことを思い出す。それもまた夫婦で共有されていたものなのだろう。 「もちろん、番を作る作らないはお前の自由だし、番を作らないオメガなんて数多いる。  でも、俺は唯一無二の関係を見つけ、その相手と絆を結ぶことができる性に生まれても、それを選ばないのは少し残念だと話した。母さんはお前に全てを委ねると言っていたが。  お前がそうやって大事な人を見つけられたというのは、喜ばしいことなんだがな……」  和真は口を噤んだ。 「絆を結びたいと思える相手を見つけられたのは、颯真のおかげだよ。もし、颯真が踏み込んでくれなかったら、僕はもっと拗らせていた」  そこで店員がシーフードカレーとサラダを運んできた。魚介の旨味がたっぷり詰まった、スパイシーな香りが食欲をそそる。  真面目な話はそこで中断となった。二人で思わず顔を見合わせる。  潤の表情は少し綻んだ。  なつかしい香り。  いたたきますと告げて、スプーンをカレー皿に入れた。  しばらく二人で無言で食べる。  変わらない、懐かしい味わいに触れて、これまでわずかに張っていた空気も、自然と柔らかなものになる。  同じものを食べるとそうなるのだろう。ましてや同じ懐かしい記憶を共有している。  空気がわずかに変わったのは、カレー皿が半分くらい空になった頃。 「で、お前、発情期はそろそろだよな?」  和真がそんな話題をふっかけてきたためだ。  思わず潤は驚き、むせかけて咳き込んで、水を飲んだ。ここまで和真から直接的な表現で問われたのは初めてだと思う。  これまではあまりに繊細な話題で、両親も避けていたのだろう。 「……あ。う、うん……」 「前のように完全に抑えるってことは止めたのか?」  和真の問いかけに潤は首を横に振る。 「今回のはちょっとしたミスで……。っていうか、正直にいうと僕が抑制剤を飲み忘れてしまって、完全に抑えるのが難しいらしいんだ」 「そうか。お前たちは、ふたりで過ごすのか?」 「……うん。そうだよ」  和真は発情期の時だけ一緒に過ごせば問題はない、と言っていたのだから颯真と身体を繋げることは容認している、はず。  ……肚の内でいちいちそう反応してしまうのは、潤自身が気にしている証左。かろうじて、外に対して平静を見せているが、少し刺激を受ければ過剰に反応してしまいそうな余裕のなさを自覚する。 「もしかして、これを確認するためにここにきたの?」 「お前たちのこと、心配はしているからな」  もちろん、その言葉を素直に受け取りはするが、潤の脳裏に疑念がよぎったのも事実。  許可を得る前に強行突破で番ってしまう企みはないか、その真意を確認するためでもあったのではないかと思ったのだ。 「そんなに心配しなくても、僕と颯真は次の発情期で番うことはないから大丈夫」  思わず突き放したような口調で、一線を引いたような雰囲気で応じてしまった。  一連の探るようなやりとりに過剰に反応してしまったのは潤だった。思わず、信用されていないのかという思いがよぎってしまったのだ。 「そんなことは思っていない」  しかし、和真が珍しく強い口調で否定する。

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