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再び一人になった社長室で、潤はデスクに残された今朝の朝刊を手元に引き寄せ、改めて開く。
この連載に「ペア・ボンド療法」の文字が載った。
記事はペア・ボンド療法にさらりと触れるといった感じではなく、しっかり踏み込んだものだった。治療法については基本的な流れが書かれていて、番を失ったオメガが新たな人生を見つけるためには有効な治療法と期待されている、と結論が書かれている。
確かに間違ってはいないのだが、一般の人が読むには少し専門的な領域に踏み込みすぎている気もする。
「ペア・ボンド療法」は、そもそもアルファ・オメガ領域という限られた領域における最先端の治療法だ。名称自体、公にされてまだ時間も経っていないし、そもそも東都新聞の一般読者層には、字面からして難解に映るだろう。それをあえて出すというのは、どのような意図だろうか。
メディアとしての先走りや、読者が感じるであろう、置いてきぼり感などは懸念しなかったのだろうか。
そう考えて、潤は内心で否定した。
違うな。
もともと、東都新聞社は、このようなことを以前もやっている。森生メディカルのフェロモン誘発剤「サーリオン」とその中和剤「ゾルフ」の承認申請時の報道だ。
厚生労働省への承認申請という、一般にはニュースバリューさえない題材をあえて取り扱っていたことがあり、森生メディカルとしては掲載意図を質したことがある。
今回のことも明快に狙いがあるのだろう。
思い当たるのは、メトロポリタンテレビの片桐の鋭い分析だ。
横浜で発生したオメガの少年達による集団恐喝事件、性差医療を問うという連載を前に、この手の話題のイニシアチブと取りたいがために、東都新聞社が協定を破って報道に踏み切り、関係者を激怒させたことがあった。
今回の「ペア・ボンド療法」も、早期に取り上げることでやはりイニシアチブを取ることを狙っているのだろうか。それは結構危険な気がするが、そもそもそんなことをしても……世論は踊るだろうか。いや、そこではないか。これ以上考えても埒があかない。
潤は考えることを一旦やめる。
そして目の前の文字を丹念に追いながら、これまでの三週間の連載を振り返る。一日も漏らさずに、実は連載は目を通してきたのだ。意識しすぎているのは、これまでの東都新聞社の姿勢や西宮の姿を考えると悔しくて仕方がないのだが、何かあったときにすぐに動けるようにしておきたかったから。おそらく、長谷川も和泉も同様だったと思う。長谷川からは、よく記事に関する見解がメールで寄せられていた。
「性差医療を問う」は、最初こそ横浜の事件など旬の話題を取り上げ衝撃的なスタートを切ったが、回を重ねるごとによく調べてある記事に変化していった。
この連載で潤が驚いたのは、彼らが第二の性の関係性をめぐる中で、ベータ性がアルファ性とオメガ性の関係に対し、ある種の理想を抱いているという識者の意見を取り上げていたところだった。
それは、颯真や和泉が懸念していたこととまさに同じで、その日の記事は思わず潤も食いついて読んだ。
さらには、オメガの中にも明確な格差は生じているという主張もしていた。アルファやオメガが身内に多い富裕層のオメガと、それ以外の一般のオメガでは、幼少期から得られる情報や医療へのアクセスに格差があり、一般のオメガのほうがそれゆえにドロップアウトしがちと結論づける記事もあった。
そして、記事のフォーカスは一般のオメガへ。オメガは道を外れると戻るのも大変なのだ。そのような人々を追う記事が数回続いた。
フォーカスの仕方に偏りがあるように思うし、潤の周りは皆そのような見解であるのだが、この段階で何かしら問題がある連載とは思えなかった。
先ほど江上が言っていたが、この連載は年度内に一旦の区切りをつけるだろう。そこにきての、ペア・ボンド療法への言及。正直、あのあたりでやめて欲しいと思っていた。
とはいえ、今日は様子見だ。
関係者が一挙一動を見ているというプレッシャーは与えている。広報部から東都新聞社の経済部記者には連載を拝読している旨は伝えている。おそらくメルト製薬も。しかし、下手に刺激はしたくない。動くタイミングではない。難しい。
潤は、出社前に隣のコーヒーショップでテイクアウトしたロイヤルミルクティーを口に含む。それは少し冷えてしまっていた。
今年度もあと残すところ一週間ほどだ。
一昨年の秋に社長に就任した潤にとって、今期は初めて通年で会社を率いたことになり、経営者としては評価が問われる。
さらに、今年はイレギュラーなことに見舞われており、組織の大幅な変更による来期の予算編成に手間取ったことにより、さまざまな事案のスケジュールが押していた。予算は通常であれば二月中に完了するはずが、三月までずれ込んでいたのだ。
朝から昼にかけて、多くの事案の決裁に追われた。
それが少し落ち着いてきた午後。
潤自身、少し体調に違和感を覚えてきているのを、あえて無視している。少し熱っぽい感じがあり、怠い気もする。おそらく発情期の初期症状なのだろうが、今日はこのまま力技で乗り切りたい。時計を見ると十四時過ぎ。定時までは四時間ほど。できれば定時まで保ってほしい……。
そう願いながら、PCに向かっている。
ちらりと視線を流し、スマホで時間を確認する。仕事が終わった後に、和泉に連絡を入れてチョーカーを装着した方が良さそうだと思った。颯真にも、今夜にも発情期がくるかもと連絡を入れないなければ。颯真だって仕事を休むことになるのだから。
おそらく颯真に連絡すれば、そのまま和泉にも知らせが繋がり、取り巻く流れは発情期の方向に一気に傾くだろう。
それが不安なわけではないが、なぜか、そのスイッチを自ら押すことを潤は少し躊躇っていた。
多分。おそらく。少し不安なのかもしれない。
近くに颯真がいれば、そのようなことを考える余裕もないだろうに、出社して仕事モードになって迷いが出たか。
自分らしくない決断力のなさだな、と思いつつ、手元の仕事に意識を向ける。
振り返れば、これまで自分が経験した発情期の入り口は、あまり良いものではなかった。自分がどうなるのか不安ばかりで辛かった。特に前回の発情期は、フェロモン誘発剤を投与されたことで、自分を全くコントロールできなくなり、とても怖かった記憶が残っている。それを今更ながらに思い出すのだ。
しばらく迷い続けながら、不在時の対応について、大西と飯田、営業部長の高岡といった幹部と短めのミーティングをたて続けに数本行った。
最後、高岡が社長室を出て行った後、潤は覚悟を決めるしかなかった。時間は十五時半。定時まではあと二時間半もあるが違和感はごまかしようがない。
潤はようやくスマホを取り上げて、颯真にメッセージアプリで連絡を入れた。
「発情期の症状が出始めたから早めに上がる」
しかし、スマホは静かなままだ。既読もつかない。
しばらくしてノックの後に入ってきたのは江上。
「社長」
潤は目の前のメールと睨めっこをしていて、江上が入ってきたことに気がついていなかった。
「そろそろお帰りになったほうがいいと思います」
潤は視線を上げた。見上げた先には、心配そうな表情をうかべる秘書の姿。あれ、いつの間にか廉がいると思う。いよいよ頭が回らなくなってきたみたいだ。
「もう少しと思っていらっしゃると思うのですが……、無理をなさらないほうがいいです」
その江上のよく見ている指摘に、潤は降参だった。
「……なんでわかるの」
江上は苦笑した。
「長い付き合いですし」
そうかと思う。江上はこれまで潤が経験した二回の発情期の入り口に彼は立ち会っていたのだった。
「和泉先生にも連絡を入れました」
対応が早い。どうやら本格的にタイムアップのようだった。
潤は、用意していたいくつかの指示を記したメールを幹部関係者に送信して、メールアプリを閉じた。メールもチャットもスマホからも確認できるようになっている。前回の発情期と比べても、颯真という相手がいることもあって、少し楽だといいなと思う。症状が治っている時には連絡も確認できるかもしれない。
「和泉先生は診察室でお待ちくださるそうです。本格的な症状が出る前に。……辛いのであればわたしがつき添います」
潤は苦笑する。結構江上には心配をかけてしまっているな。
「大丈夫。それよりしばらくの間の留守をよろしく。ほんと、飯田さんや大西さん、高岡さんにもそう伝えておいてほしい」
「承知しました。お早いおどもりをお待ちしております」
江上が深く一礼した。
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前半部分の補足です。
森生メディカルと東都新聞社のフェロモン誘発剤「サーリオン」とその中和剤「ゾルフ」をめぐる報道のトラブルは3章28話、
メトロポリタンテレビの片桐要氏の東都新聞社が先走って報道する本音を分析した鋭い指摘は、3章27話あたり、そして颯真と片桐の対談に潤が招かれた3章39話でも話しています。
復習したいというありがたやな方がいらしたらぜひどうぞ!
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