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 潤は久しぶりに自室のクローゼットを開け、目の前に広がったハンガーにかけられたスーツから、好んで着用しているネイビーのシャドウストライプのスリーピーススーツを、迷うことなく取り出した。  合わせるワイシャツは白。  クリーニングしたてのワイシャツはぱりっとのりがきいていて、するりと袖を通すと自然と気持ちも引き締まる。  鏡の前で合わせたネクタイは、グレー地に細かいチェックが入った、颯真が以前プレゼントしてくれたものだ。鏡に向かい合ってネクタイを締めていると、不意に自分の左手が視界に入り、思わず手を止める。  薬指に収まる白金の輝きに、思わず口許が緩んでしまい、一人で慌てて気を引き締める。あの夜に颯真が嵌めてくれたまま。そのリングは潤の指に収まっている。  右手でそのリングに触れると、あの時の颯真の顔が蘇る。 「俺はいつもお前と共にある」  そうして、このリングの上に、誓うようにキスをしてくれた。  あのある意味荘厳で甘い一時を思い返し、潤もリングの上に唇を重ねる。 「大丈夫、僕は頑張れる」  そう言葉に出す。  潤の想像よりもかなり早く、発情期が明けた。前回の年末の発情期は、フェロモン誘発剤の過剰投与状態から入ったという特殊な事情もあったが、完全に症状が治まるまで一週間近くが必要だった。今回は、その半分くらい。  正確には三日半くらいだった。それでも、症状が治まった翌朝、出社するために、和泉に連絡を取りチョーカーを外してもらおうとしていた潤を、颯真が宥めて丸一日を休息にあてた。それも、とても幸せな微睡だったが、それでも休みは実質四日半。  自分の発情期は重い、と颯真にも言われていたし、そのように実感もしていたので、こんなに早く復帰できるとは思っていなかった。  発情期を軽いものにしてくれたのは、当然颯真だろう。年明けから一ヶ月、全く抑制剤を服用していなかったにも関わらず、ここまで抑えてくれたのは、約二ヶ月間彼がきちんとコントロールしてくれたからに違いない。  潤は颯真に心から感謝した。  潤にとって、生まれて初めて発情期はこわいものでも辛いものでもなく、幸せなものであると実感できた時間だったのだ。 「潤。準備できた?」  颯真が部屋に顔を出す。  ネクタイを締め、いつも通りにベストを着てジャケットを羽織って、潤は頷く。 「できたよ」 「じゃ、行くか」  颯真も、すでに出勤の準備を整えていて、いつものように白いワイシャツ、ネイビーのツーピース、そして、潤がプレゼントした水玉のネクタイを締めている。  相変わらず、自分のアルファは格好良いと口元が緩む。  そして、ネクタイ。思わず声が弾んだ。 「考えていること、一緒だね」  互いの視線がかち合うと、彼は頷いて潤の背中をとんとんと叩いたのだった。  潤がシューホーンを使って革靴を履くと、それを見ていた颯真がふと潤の左手をとった。 「そのリング……」  颯真の呟きに、潤は左手を掲げる。左手薬指に収まったままのリングは輝きを見せる。 「なに?」    颯真は少し考えるしぐさを見せてから、潤に向き直る。左手に触れた。 「颯真?」  潤が訝し気に颯真を見上げる。颯真は、潤のリングの上にキスをした。 「なあ、このリングの誓いは、俺たちの間だけで分かっていればいいと思わないか?」  颯真の言葉を、潤はとっさに飲み込むことができなかった。  戸惑う潤を見て、颯真が苦笑する。 「ここを出れば、お前は、若手経営者として常に注目されている立場だ。いきなり左手薬指に指輪を嵌めて出社したら大騒ぎになるだろう?」  お前の会社の女子社員は泣くだろ、と颯真が冗談めかして言うが、それはないだろうと思う。ただ、無用な注目を浴びるのは自分たちが望むところではないというのは本音。  でも、それは自分に限ったことではない。 「颯真だって……」  彼の左手薬指にも潤とお揃いの白金のリングは輝いている。 「俺は白衣を着るときに外すつもりだ。お前は、その意識なさそうだなって思って」 「え、颯真外すの?」  潤はつい不満げな表情を浮かべてしまい、本音が漏れる。正直その考えはなかった。 「女性が多い職場だからな」  なるほどと思う。颯真が左手の薬指にリングを嵌めていたら確かに大騒ぎになりそう。今回の発情期での休暇も、何か噂になっているのかもと余計な心配も出てきてしまう。 「僕も外した方がいいかな」  そのように問うてしまうのは、外したくないという気持ちの現れだとわかっている。もちろん、社会的な立場を考えれば慎重に行動すべきで、普段であればためらいはない。でも颯真が嵌めてくれたこの指輪を外すのに迷いが出ているのだ。  颯真が潤のリングを指からあっさりと引き抜く。 「あ」 「右手出して」  颯真がそのまま潤の右手薬指にリングを嵌めてくれた。 「右手なら。一般的にそういう意味合いもないから、多少は誤魔化せるだろ」  潤は颯真が嵌めてくれたリングをしみじみと見つめる。 「本当は、お前は俺のものだって、言いふらしたいくらいなんだ」  思わず颯真を見上げる。 「だから、もし聞かれることがあったら、結婚を意識している人はいる、と言え」  颯真が見せるさりげない独占欲が、潤を幸せな気分にさせてくれる。 「そうだね。そうする」  潤もリングの上からキスを落とす。間接キスだと気づいて一人で照れた。 「さて、少し急がないとな」 「予約は十一時だっけ」 「そう。今日は和泉先生の外来は午後だけど、受付で話してくれれば開けるって。……ホント世話になりっぱなしだな」  そういいながら二人で一階のエントランスまで降りる。防犯上、地下駐車場へは一階のエントランスを経由しないと行くことはできない。高い天井まで大きなガラス張りとなったエントランスから外の風景が視界に入り、潤は立ち止まって、颯真の手を引く。 「ね颯真、外は桜が満開だよ」  気が付けば、目黒川沿いの桜は満開となっていた。この辺りは都内でも桜の名所。それでも春の間のほんの数日間しか見られない絶景だ。暖かく柔らかな陽の光に、ふわりと淡いピンク色の花がきらめいている。風にふわりと揺られて花びらを散らす姿は、まるで雪のようにも見えて。  その風景は美しくて、できればずっと見ていたいと思ってしまう。  颯真も立ち止まった。  「綺麗だな」  発情期が長引けば、今年はこの風景が見られないと、潤は少しだけ諦めていた。 「一緒に見られて、よかった」  潤は呟く。  しばしの間、その美しい風景を二人で眺めていた。

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