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 颯真の運転で、そのまま二人で千代田区の誠心医科大学病院に向かう。和泉に、潤はチョーカーを外してもらうため、颯真は仕事に復帰するにあたって新たにヒート抑制剤を処方してもらうためだ。  平日午前の大学病院の外来待合ロビーなんて混んでいるのは当然のことで、ひっきりなしに名前や呼び出し番号が飛び交い、多くの人がいてざわついた雰囲気。受付を済ませた颯真が、そのまま潤の手を引いてそのロビーを抜け、アルファ・オメガ科の外来前まで連れてきてくれた。  内科や整形外科などよりは落ち着いた雰囲気。潤と颯真は空いたベンチに腰掛けた。二人並んでしばらく待っていたが、明らかにほかの患者よりも早く、二人そろって呼ばれた。  和泉が外来を開けると言っていたから、稼働していない診察室を使用しているのだろう。少し奥まったところにある部屋に、看護師が案内する。颯真がカーテンを開けると、ドクターチェアに白衣姿の和泉が座っていた。 「おはようございます。森生先生、潤さん」 「おはようございます」  颯真がそう挨拶し、潤も会釈した。 「まずは森生先生の採血ですね。奥にスタッフがいるのでそちらでお願いします。潤さんはこちらにおかけください」  颯真が奥の採血室に案内されていくのを見送って、潤が和泉の正面の椅子に腰掛ける。 「潤さんはすっかり症状も治まったみたいですね」  そういって和泉が潤の顔を見つめる。潤も頷いた。 「はい。おかげ様で無事に終わりました。項も噛まれませんでしたし」 「終わったことは、森生先生がちゃんと確認されてますよね」  和泉にそのように聞かれて、その意味合いを理解した潤は恥ずかしくなったが、きちんと頷いた。朝起きて、颯真にアナルを触診され、発情期がきちんと終わっていることは確認してもらっている。……そのあと、気持ち良くなってしまった潤を颯真が慰めてくれて、朝から愛撫を受けたりしていたのだが。発情期でもそうでなくても、結局やることは変わりないなと、颯真が苦笑していた。 「わかりました。じゃあ、チョーカーだけ外しましょうね」  和泉にそのように言われて、潤はジャケットとベストを脱いで、ネクタイをほどく。ワイシャツのボタンを上からいくつか外すと、すでに潤の中では馴染んでしまった黒いチョーカーが姿を見せる。項を和泉に見せると、穏やかな彼が、おや、と声を上げてから、電子キーでチョーカーをあっさり外してくれた。 「少しそのままでお待ちくださいね。首筋、ちょっと傷になってるので手当だけしておきましょう」  チョーカーによる傷ではなく、それは噛み跡らしい。森生先生はずいぶんと我慢されたんですねえと和泉が苦笑交じりで呟く。潤はさすがにかーっと顔が熱くなった。首筋にはいくつものうっ血があるみたいなのだが、和泉は噛み跡がついた部分をカバーするようにガーゼを当ててくれた。 「自然に治ると思いますが、跡が残らないように、念のためね」  大丈夫ですよ、と和泉に言われて潤が首筋に触ると、不織布の絆創膏が貼られていた。そのままワイシャツを直し、ネクタイを結び直す。 「潤さん、このチョーカーにして正解だったみたいですよ」  和泉がそう注意を向けてくる。潤がその手元を覗き込むと、頑丈だといわれていたチョーカーに、所々にわずかな毛羽立ちがみとめられた。  潤が、これは? と問う視線を和泉に向ける。 「おそらく発情期の間に森生先生がなんとか外したいと噛んだりした跡なのでしょうね」  和泉がそう答えた。  ……たしか、このチョーカーはハサミでも切れないと聞いた気がするが。 「森生先生はこのチョーカーに阻まれてかなり辛かったでしょうね」  潤も、ああ、なるほどと実感した。きっとヒートにのまれたアルファなら、見境がなくなれば、このチョーカーを刃物で切断したいと考える者もいそうだ。 「潤さんがチョーカーを着けてくださったおかげです。それがなければ、おそらく森生先生はこの発情期の間も項を噛まないようにと強めのヒート抑制剤に頼って、却って悪化していたかもしれません」   目の前のPCに和泉はパチパチと書き込んでいく。  何気ない雰囲気で和泉がつぶやいた。 「これだけ強い絆を感じると、お二人はある意味、運命の番だと言っても周りは納得してしまうかもしれませんね」 「……運命の番?」  意外な方向性の言葉に潤が首をかしげると、背後から颯真が戻ってきた。 「あ、森生先生が戻ってきましたよ。  お疲れさまでした。森生先生が発情期は治まったと判断されたと伺いましたので、チョーカーは外しましたよ。あと首筋にいくつか傷跡がありましたが、それは手当しておきました」  颯真が潤の隣の席に腰掛ける。 「ありがとうございます」 「今ね、潤さんと『運命の番』について話していたところなんです」  颯真は首を傾げる。 「運命の番というと、医学的にはまだ解明されていないけど、世間ではもてはやされているアレですか」  そのストレートな表現に潤の口許が少し緩む。それは、世論を少し斜めに見ている颯真らしい視点。  しかし、和泉もその反応を否定しない。 「そう、それです。現実的にまだ『運命の番』の医学的な定義は曖昧です。いくつか論文も出ていますが、症例数が少ない。それに現在判明しているケースだけで全てと言えるのかもわからないという、まだまだ曖昧なものです」  専門家でも意見が分かれる部分なのだろうと思う。 「でも、まるで森生先生と潤さんは『運命の番』みたいですねって」  颯真は苦笑した。 「確かに、本来は番とはなり得ない二人ですから、そういう意味で、惹かれあったのは運命と言えるかもしれませんね」  颯真が潤を見た。 「あ、結果が来ましたね」  手元の和泉の端末には颯真の検査結果が送信されてきたようだ。 「……うん。大丈夫みたいですね。今日は仕事で必要な分のヒート抑制剤をお渡ししますね。私からヒート抑制剤を処方されているうちは、ご自分の判断で飲まれるのは止めてください。  森生先生がお休みされている間に、横浜病院の部長には私からも事情をお話をしておいたので、多少は配慮されると思いますし……」  休んでいた間に、和泉も手をまわしてくれていたらしい。本当に世話になりっぱなしだと潤も思った。  颯真がありがとうございますと深く頭を下げたので、潤も感謝の気持ちをこめてそれに倣った。  颯真の車から品川駅で下ろされ、潤が久しぶりに本社に出社すると、社内……正確には上層階は、いつもと少し異なる雰囲気だった。  どこかざわついているというか、慌ただしい雰囲気。  年度末であるという理由だけでは説明がつかなさそうな、少し異様なものだった。 「社長、お帰りなさい」  あらかじめ江上には出社の連絡を入れていたため、エレベーターホールで出迎えてくれた。 「ただいま。そんなふうに言われると照れるね」  そう潤がいうと、江上からは、このように返される。 「今回は痩せられてないみたいで安心しました」  彼は、これまで潤が経験した辛い発情期の入口に立ち会ってきたから、颯真と発情期を過ごすと分かっていても、心配があったのだろうと思う。 「自分でもびっくりするくらい大丈夫だった」  そう報告すると、それならば本当に良かったです、と笑みを浮かべた。 「でも、僕の不在の間に、東都新聞の連載では事態が動いたみたいだね」  潤がそのように話を向けると、江上の表情が厳しくなり、目を細めて頷いた。

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