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「もうご存じでしたか」  江上の言葉に潤が頷いた。 「出社前、誠心医科大の和泉先生のところに寄ったから。そこで少し話が出た」  そう、先ほど和泉が「性差医療を問う」という東都新聞社の連載でペア・ボンド療法が不要な注目を浴び始めていると嘆息していたのだ。普段慎重な和泉がそうため息をつくほどのことを、東都新聞社は仕掛けてきたのかと潤は憂鬱な気分になり、颯真の車に戻ってきてから一通りスマホで記事をチェックしていた。 「まあ、やってくれたよね」  そう嘆息すると、江上も頷いた。 「ですね。では、資料を揃えて後ほど改めてご報告に伺います」  潤は社長室の扉を開き、室内の灯りをつける。  久しぶりに見る、いつもと変わらない執務室。  デスクに着くと、目の前のノートPCの電源を入れる。発情期の間、というか、昨日になってざっとチェックしたメールとチャットに返信していると、江上がやってきた。 「社長、これ読まれますよね」  そう言って持参してきたのは、東都新聞社の連載記事の切り抜きのコピーだ。 「ありがとう」  礼を言って、コピーに視線を落とした。  江上が差し出したコピーは全部で六枚あった。  一番上は、潤も発情期前に読んだ「オメガの新たな選択肢、ペア・ボンド療法」という記事。  東都新聞社の連載「性差医療を問う」で初めてペア・ボンド療法に触れた回だ。  かなりしっかりと治療内容が書かれていた記憶がある。「番を失ったオメガが新たな人生を見つけるためには有効な治療法と期待されている」と結論づけていた。  二枚目以降をパラパラと見る。  「社長がお休みに入られてから……、徐々に過激になってきました」  というのが、江上の報告だった。  二枚目となる、翌日の記事は、ペア・ボンド療法のきっかけとなる出来事に触れていた。アメリカでメルトが上市した「グランス」が与えた衝撃について。フェロモン誘発剤という新たなカテゴリーの治療薬で、それをきっかけにアメリカの医療現場では、パラダイムシフトが起こったという解説だった。  その通りだ。  オメガの「フェロモンのコントロール方法」が劇的に変わったのだ。それまではフェロモン抑制剤で「抑える」方法が主流だったが、グランスの登場で「抑える」だけでなく、フェロモンを「促す」ことが可能となり、劇的にコントロールしやすくなった。  それはフェロモンをなるべく抑えたいという、番がいないオメガはもちろん、発情期をコントロールしたい不妊に悩んでいる番持ちのオメガにも恩恵をもたらした。  そして、番を亡くしたオメガには「救済」になりつつある。それが「ペア・ボンド療法」だ。  記事は、抑制剤ほどの規模ではないといわれているが、市場はまだ未知数であり、それに目をつけた製薬会社各社は、グランスの上陸と前後して開発競争が起き始めていると解説している。  その記事の中で、現在厚生労働省に承認申請中の、森生メディカルのフェロモン誘発剤「サーリオン」と中和剤「ゾルフ」に触れられていた。現在開発競争を繰り広げている中で一歩リードしていると説明があった。なるほど、ここで使うためにあえて両剤の承認申請をニュースとして取り上げたのかと、潤は妙なところで納得した。  ……しかし、ここの内容も全くもってその通りだった。  潤は思わずため息をついた。 「悔しいけど、正論だね」  視線を上げると、江上も頷いた。 「ええ」  しかし、三枚目と四枚目になると、少し記事のテイストが変わってきた。  三枚目の見出しは「オメガの性差医療、医療の格差も」。  医療の高度化に伴って高額化しつつある中、オメガのフェロモン療法のなかでも格差が出てきているという切り口だ。それは、いわゆる先日あった「横浜の事件」にも繋がっていると、勝手な決めつけに近い主張が主軸になっている。  そして四枚目。その見解をさらに拡大解釈した記事だ。その遠因が、意図的に医療の高額化を目論む医学界や製品開発競争を激化させている製薬業界にあるのではないかといった見解を匂わす記事。  これといった根拠が提示された記事ではないのだが、これでは読者はこの連載記事の主張をミスリードさせられてしまう。それにタイトルもよくない。「注目されるフェロモン治療、その行く末」。どうも不穏さを感じる。  曰く、オメガの近くには常にアルファがいる。そのためこの治療領域には潤沢な研究開発資金が存在するのは事実。そこに群がる人々がいてこの領域は発展してきたという歴史がある、云々。  この分野が劇的に発展したのは、言うまでもなくフェロモン誘発剤が保険適用となったことがきっかけだ。  その経緯からして、当時の厚生省の関連審議会委員の中に、粗悪なフェロモン抑制剤を掴まされ、副作用に苦しむオメガを番に持つアルファがいたためだ。裏話として語られてはいるものだが、裏事情を見ればそんな単純な話でもない。  とはいえ、やはりこの分野の発展には常にアルファの協力があることは間違いない。しかし、その一点のみをみても、功罪両方が当然ある。この記事は意図的に読者にプラスの部分しか見せていないような構成だと、潤は感じた。  そして五枚目。昨日の記事だ。  様相が変わった。まとめに入ってきたというべきか。オメガの幸せとは何かを問いかけ、それはアルファと番い、子を成すことだと訴えていた。  アルファとオメガが共にいるのが自然であると、アルファとオメガの生涯番契約率とベータの生涯未婚率を比べていたりとデータを使った解説や、実際のオメガへの匿名インタビューなどを交えた、昨日とは一転した柔らかい印象の記事構成になっている。  自分が颯真という番と巡り会えたからこそ言えるのだが、その通りだとは思う。しかし、それが全てのオメガにとって正しいとは限らない。  そんなことは至極当然の話だが、この連載を通して読んでいると、差別や格差が横行し一人で生きていくには過酷な状況のオメガは、アルファと番う人生がなによりも幸せなのではないかとちらりと思えてしまうのだ。不思議なことに。  読んでいて、潤は胸がモヤモヤしてきた。随分勝手なことを言ってくれるなと言いたいのに、なぜか説き伏せられてしまったような感じだ。  吐息で憂鬱さを逃してから、最後の一枚に視線を落とす。  今朝の紙面のコピーをめくる。「性差医療を問う」というタイトルに最終回と銘打ってあった。  見出しは、「パンドラの箱を開けたか 禁断の治療法、ペア・ボンド療法」。  潤は思わず息を詰めた。 「……」  潤は和泉の懸念を十分に理解した。  過激な見出しだ。これだけで記事を読む前から、ペア・ボンド療法の印象はほぼ決まったようなもの。  江上がそっと問いかけてくる。 「和泉先生はどのようなことを仰っておられたのでしょうか?」  潤も眉間に皺が寄る。 「もしかしたら、もともとペア・ボンド療法がこの連載記事のターゲットだったのではという懸念を持たれたようだ」  和泉の懸念は尤もに思えたが、具体的に予防策を講じることは難しい。なにせ向こうには報道の自由という大義名分がある。  和泉や颯真からみると長きにわたる努力の末にようやく結実したのが、ペア・ボンド療法という治療法だ。それをこのように汚されるのは、複雑な気持ちになるだろう。  社長室の内線が鳴り、江上が応じた。相手は、副社長の飯田らしい。 「至急ご報告に上がりたい案件があるそうですが……」  その言葉に緊急性を感じた。潤は頷く。 「分かった」 ୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧ ・東都新聞社の連載「性差医療を問う」内、ペア・ボンド療法について触れた記事の内容については、3章第55話、 ・フェロモン治療が保険適用となった具体的な経緯いついては1章第18話や2章第25話、 ・作中に書かれている「いわゆる横浜の事件」については3章13〜14話、第18話、第25〜26話あたりにあります。 復習されるありがたやな方はぜひどうぞ。

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