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 飯田から連絡があってすぐ、彼は社長室まで上がってきた。  席を外そうとした江上だったが、飯田に同席するよう引き止められる。潤が飯田に目の前のソファに腰掛けるように勧めた。 「復帰早々のお忙しいところ申し訳ありまん」  飯田には管理部門を管轄してもらっており、社内のあれこれを任せている。大西と飯田は多少のトラブルには揺るがず泰然と処理し事後報告をしてくるし、そのための権限もあるので、二人から至急報告したいことがあると言われると、潤は可能な限り最優先で身体を空けることにしている。 「飯田さんから 至急と言われるとこちらも気を引き締めないとなりません」  潤がそう言うと、飯田は苦笑した。 「お騒がせしました。社長に報告が上がるのも時間の問題と思いまして」  軽口で少し空気が軽くなったところで、潤も切り替える。 「で、何かありましたか」  そういうと、飯田は広報部から報告が上がってきました、と切り出す。 「連日の東都新聞社の連載記事ですが、反響……といっていいものか……影響が、我が社にも及んできていまして、現在広報部で対応しているところです」  潤の脳裏に、ちらりと香田の姿がよぎる。   「影響とは、どのような」 「多いのは、これまで弊社とはあまり関わりがなかったメディアからの取材依頼ですね。特に週刊誌やネットメディアが多いみたいです。  あと、これまでにない現象なのですが、一般消費者からも問い合わせが来ているようで」  それは思ってもみなかった報告だった。 「それは……予想外ですね」  潤の反応に飯田も苦笑しつつ頷いた。  森生メディカルは、ドラッグストアなどで販売されている一般用医薬品を取り扱っておらず、また企業広告を派手に打つこともしていないため、製薬業界や医療現場と接点がない一般消費者からの認知は低い。  在京五紙とはいえ、東都新聞社の連載にわずかに触れられるだけで、そこまでの反響があるのものか。  そんな疑念がすでに飯田には伝わっているのだろう。 「ネットで……SNSを中心に情報が広がっているようです」  それは、潤も想像していなかった。 「きっかけはテレビです。東都新聞社の連載を、朝のニュースとワイドショーが取り上げていまして」 「……そうきたか」  潤も吐息を漏らした。 「東都新聞系のテレビ局です。ネットの反応を見ていると午後や夕方の情報番組でも取り上げるんじゃないかと」 「一日中やられるとなると、溜まったものではないですね」  東都新聞の連載記事を東都新聞系列局の情報番組で注目ニュースとして解説するのはよくあること。テレビ局だって、他社の記事より、系列新聞に特ダネがあるならそれを報道するだろう。ただ、それがネットに飛び火したのは想定外だった。 「オメガという人たちにスポットが当たるのは決して悪いことではないと思うのですがねえ」  その嘆息に、潤も頷き、同意した。  そう。決して悪いことではないのだが……。 「SNSの様子は確認されてますか?」  ええ、と飯田は頷いた。 「目新しい話題みたいで、まずは記事の内容が取り上げられている感じでした」 「微妙な時期だし、あまり話題になるのは遠慮したいですね……」 「はい。そうならないようにとは思うのですが、一旦出てしまうとコントロールはきかないものですし」 「消そうとすれば増えるのがネットと言われていますし、どこまで、どのように広がるかは……今のところ静観するしかないですね」  潤の言葉に飯田も溜息をついた。 「社長。あの最終回の記事は刺激的な言葉が踊っています。『禁断の治療法』というタイトルは、しばらく一人歩きしそうですしね」  新聞連載の最終回は、ペア・ボンド療法を「禁断の治療法」と断じていた。最終的にオメガ自身の人生の選択を広めるものである一方、絶対的な絆とされるアルファとオメガの番契約が根底を覆してしまうほどのインパクトがあり、ある種のパンドラの箱を開けるようなものだと言うのだ。将来的には番契約の形骸化も懸念される声もあるとして、今後議論を呼びそうだと結論づけていた。  ペア・ボンド療法について、誠心医科大学とメルト製薬、森生メディカル、そして厚生労働省の四者間では、最終的に「意に添わない番契約を強要されたオメガが、自分の意志で番契約を更新できる」ところまで広げたいとの意志を共有している。この連載記事は、そのような詳細まで辿り着けていないようで安堵したが、それでも攻撃的で先鋭的な主張だった。 「米メルトがフェロモン誘発剤なるものを市場に投入した時点で、ペア・ボンド療法という考え方が学術界を中心に生まれることは規定路線となったのだろう。  オメガの人々は、製薬企業や学術界の思惑により、ペア・ボンド療法というパンドラの箱が開いてしまったことへのインパクトに気がついていないのかもしれない。  パンドラの箱は、ギリシア神話で最高神ゼウスが人間の女性パンドラに渡した箱をさす。それはあらゆる災いが詰まっていてそれを好奇心で開けた結果、世の中に災厄が蔓延し、急いで閉めた箱の底に希望だけが残ったという逸話から来ている。  果たして、この箱から放たれるのはどのような災厄か、どのような希望が残るのか……」  不穏な論調であることこの上ない。 「もう、書きたい放題ですな!」  飯田は東都新聞社の記事をそのように言い捨てた。潤も同意だ。自分達の媒体の影響度を考えて言葉を選んでほしいと思う。  これではペア・ボンド療法はオメガの人たちに悪影響を及ぼすとしか読めないのだ。彼らがどのように思っていても仕方がないが、ペア・ボンド療法を実用化するために心血を注いできた人たちがいるのだ。その情熱を踏み躙っていいはずがない。  それに、肝心のペア・ボンド療法の結果については、まだオープンにさえなっていない。再来月……五月半ばに横浜で行われる、アルファ・オメガ学会でその報告がされる予定だ。それまでは、試験の結果をはじめとして、何も言えることはないはずなのに。  この研究に積極的に関与しているのは、誠心医大と森生メディカルとメルト製薬。とくに森生メディカルは厚生労働省に承認申請中の薬剤を抱えて、このプロジェクトに参加している。この騒ぎで新薬の審査に何かしらの影響が出るのが一番困る。  飯田は記事のコピーを手にしてパチンと指で叩く。 「広報部ではこれに関し、東都新聞社の社会部に抗議をメルト製薬と連名で出しました」 「早いね」 「それは江上秘書室長のおかげです」  その言葉で潤も全て察し、控えている江上を見た。彼が風山に繋いで、広報同士でスムーズに連携できたのだろう。  飯田が報告した。 「香田部長には改めて指示をしておきますが、現状この件に関して、我が社で受けられる取材はないと思っています。一般論をお話ししても仕方がないので、と言った具合で全て断る方向で。メルトと誠心医大も同様です」  出せる情報はないのだから、窓口を閉めて沈静化を待つしかないだろう。  潤も頷いた。 「わかりました」    とりあえず抗議すべきところには抗議し、後は静観を決め込む。新たな火種は作らないというのが今できることのようだった。 「サーリオンとゾルフの新薬審査に影響が出るのが一番怖いですから。これは大西さんに言っておいた方がいいかもですが、……いや、もう対処しているかな」  潤の呟きに、かもしれませんね、と、飯田も頷いた。 「これ以上、東都新聞社には騒がないで欲しいと。それを願うばかりです」 ୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧ 補足です。 作中にあった「ペア・ボンド療法の最終的な狙い」については2章25〜26話で潤とメルト製薬社長の長谷川が話しています。復習されるありがたやな方はぜひ。

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