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 その日、東都新聞系列のテレビ局である「東都テレビ」により、「性差医療を問う」の連載記事が情報番組などで紹介されたことで、ネット……とくにSNSのトレンドワードに「ペア・ボンド療法」が上位に上り、大きな注目を集めた。  その後の広報部からの報告では、朝から午前中のニュースや情報番組だけでなく、午後から夕方にかけてのワイドショーでも取り上げられていたというので、かなり断続的に話題になっていたようだった。  この件に関して、森生メディカルはメルト製薬と連名で東都新聞社社会部長に対し、正式に抗議を申し入れた。  ペア・ボンド療法は未だ発展途上の新しい治療法である。その効果と評価については未解明の部分があり、特に誠心医科大学の学内の倫理委員会で臨床試験の実施が認められ検証が行われている最中である。そんな中、報道により一方的に「禁断」と断じるのは早計な判断であり、一般社会に誤った認識を与えかねないことから、強く抗議するといった内容。  抗議をしても無視されるだろうし、すでに行われてしまったことに対してどこまで意味があるのかと疑問は残るが、それでも「抗議した」という事実は残しておく必要がある。  そんな憂鬱な報告ばかりが耳に入ってきていた夕刻前。  潤のスマホが振動し、颯真からメッセージを受信した。 「仕事が早く終わるなら、夜は外で飯を食わないか?」  午後の仕事中にこんなプライベートな連絡が入るのが珍しければ、内容も珍しい。そもそも颯真の方が忙しいと常々潤は思っているので、仕事が早く終わるのかと、気になるのはこちらの方なのだが。颯真がそのように誘うからには今日は早めに上がれるのだろう。 「いいよ。大丈夫。近所にする?」  潤の返信に、すぐに既読が付く。 「そうだな。一度車を置いてから行くから、駅前で待ち合わせよう。何を食べたいか考えておいて」  了解のスタンプを押し合って、トークは終了した。  これは恋人のようなやり取りだなあと、潤はスマホを手にして胸が高鳴った。  これから営業会議であることなど忘れてしまいそうだ。どこがいいだろうな、と気分が弾み、妙案が浮かんだ。  年度最後の営業会議も滞りなく終わり、潤はそのまま定時に仕事を上がることができた。  また明日から早朝に出社して仕事をするのだろうから、今日は早めに帰ってくださいと江上が夕方からのスケジュールも入れなかった様子。当の本人は、年度末の忙しさで今日も残業らしいが。  中目黒駅の前で颯真と待ち合わせをする。駅前で社用車から降りて待っていると、しばらくして人波の中を颯爽とこちらに歩いてくる颯真の姿を見つけた。  大股で颯爽とこちらに闊歩してくる姿を見て、やっぱり片割れはカッコいいなと潤はしみじみ思う。いや惚れ直しているのかも。  そもそも今日は、颯真と昼前に別れたばかりなのだが、憂鬱なことが多かったせいか、降ってわいたような楽しい予定に、浮かれ気分になっているらしい。 「待たせた?」 「ううん。さっき来たところだから大丈夫」  二人で並んで歩きだす。平日の夜とはいえ、桜の最後の時期だから、それなりに人出は多い。 「なに食べたい?」  颯真の問いかけに、潤は行きたい店があるのだと言った。  潤が颯真を伴ってやってきたのは、半地下のカフェバー。潤が年明けからことあるごとに来店しているあの店だった。  目黒川から少し離れた場所にあり、店内から桜が望めるわけでもないので、さほど混み合っているわけではなかった。 「いらっしゃいませ!」  対応してくれたのは、先日潤にハニーラテを出してくれた、潤を常連客と認識する店員。 「こんばんは」  そう挨拶すると、彼はにっこり笑う。 「ようこそお越しくださいました。今日はお連れ様がいらっしゃるのですね! それじゃあテーブル席がいいですね」  店員が店内の奥を少し窺う。 「行きつけなのか?」 「まあね」  颯真の囁きに潤は頷くが、同時に店員に案内された。 「奥のお席が空いてるので、どうぞ!」  少しゆったりとしたボックス席に案内された。  席に着いた颯真が、店内を一望する。 「ここ、一度来たよな」 「うん。ふたりで住み始めた頃に。ランチどこでするって話になって、颯真がここがいいって即決だったお店」 「そのあと結構来てたんだ」 「割とね」 「いつの間に。そういうの苦手だったろうに」  颯真が驚きの声を上げた。 「僕も成長してるってことだよ」  潤が胸を張ると、今度は颯真が魅惑的な視線を向けてきた。 「そんな風に、俺の知らないところで成長されると妬けるな」 「もう……!」  なぜか負けた気がした。 「お飲み物、どうされます?」  先ほどの店員がおしぼりを持ってきた。温かいそれを受け取って、潤は颯真に問う。 「ビールでいい?  じゃあ……グラスビールを二つ」   颯真がメニューを開いて、潤に問いかける 「お前のおすすめは?」 「おすすめかー」  そう言われるとと弱い。いつもので、ほとんどメニューなど見たことなかったのだ。少し困ると目の前の店員のおすすめばかりを注文していた気がする。  すると、その彼はうまく察したようで、言葉を添える。 「なら、いつものアペタイザーはいかがですか? ちょいちょい盛り合わせ内容を変えているので。今日は、野菜のピクルスと生ハムのオリーブ添え、あとカルパッチョです」 「じゃあそれで」  潤がそう頷くと、彼は少々お待ちください、と言い添え去っていった。  気が付けば、目の前の颯真がニヤニヤしていた。 「なに~」 「いや、そのあたりは相変わらず保守的だなって。俺が知ってる潤で安心した」  店には来ていたものの、いつも同じものしか注文していない姿勢がバレてしまっていたようだ。颯真がメニューをパラパラめくる。 「イタリアン寄りのアメリカンダイナーだな。お前が好きそうな料理が結構ある」  潤が頷く。 「うん。美味しいよ」 「じゃ、お前は何食べたの?」  続くその質問の答えに詰まる。 「うーん? 前菜の盛り合わせとか、カフェオレとか……ビールとか?」  颯真が早々に決断する。 「あてにはならなそうだな。  お前が好きなシーザーサラダがあるな。頼もう。ポテトフライがおすすめだって。チーズソースがかかってるのか。それも旨そうだな」 「唐揚げある?」 「あるよ。頼むか」    食の好みが似ているから、注文選びで喧嘩をしたことがなかった。 「お待たせいたしました」  店員がビールとアペタイザ―を運んできた。颯真がサラダとポテトフライと唐揚げも注文し、二人は乾杯とグラスをかち合わせた。 「乾杯」  料理も続々と運ばれてきて、好物も多く、潤のテンションも上がった。 「そうだ、潤。これ、廉に渡しておいてくれる? あいつ、次にいつうちに来るのか分からないし」  そう颯真が潤に手渡してきたのは、真っ白な紙袋。 「いいよ。廉に渡せばいいんだね」  紙袋には、いつか颯真が買ってきてくれた、病院近くの紅茶専門店のマークが入っている。  紙袋を受け取り、上から覗き込むと綺麗にラッピングされた箱が入っている。 「そう。尚紀に渡してって」 「尚紀?」 「うん。誕プレ。ちょっと遅れたけどな」  は?  潤は驚いて思わず反応した。 「尚紀、いつ誕生日だったの?」 「今月二十日。お前知らなかった?」  もう十日も前ではないか。  そういえば、尚紀の誕生日は聞いたことがなかったと思い当たる。なんで颯真は知っているのだと思ったが、主治医の彼が知らないはずはなかった。  大きなショックと微妙な敗北感に打ちひしがれながら、潤は紙袋の中身を問う。 「ノンカフェインのルイボスティーだ。ベリーが入ってて美味そうだった。あそこの店員のおすすめは的確だな」  プレゼントの中身までしゃれている。妊夫だからと、ノンカフェイン飲料を選んでいるあたりが流石だ。  今年は尚紀の誕生日プレゼントを選ぶ楽しみを逃してしまった。 「十日前って、お前も俺もいっぱいいっぱいだったから仕方がないだろ」  そう颯真はフォローしてくれる。たしかに十日前は颯真のヒート抑制剤の過剰摂取の話があって、来る発情期に緊張感が高まっていた頃だった。ついでに、東都新聞社の連載にも絶妙に神経を逆なでされていた。 「そうだけどさ……」  少しいじけた気分で、それでも来年は絶対に忘れないようにと今からスマホのスケジュールに入れておいた。 「気にすんなよ。賭けてもいいが、尚紀は気にしない」 「そんなの賭けにならないじゃん」  尚紀は気にしないと分かる。だからこそ悔しいのだ。 「じゃあ、今週にでもプレゼントすればいいよ、お前だけしかできないやつあるだろ」 「僕だけ?」  潤は首を傾げた。 「廉を早く帰してやるとかさ。お前の専属だろ」  そういえば、今日も残業だと聞いているし、おそらく先週もずっとそうだったのだろう。年度が変わったら廉に休みを取らせようと、潤は気を改めた。 「お待たせいたしました! シーザーサラダとポテトフライ、唐揚げです。  揚げたてなので、かなり熱いです。お気をつけてお召し上がりくださいね」  あつあつの、湯気がゆらりと上がっているような料理が手早く提供される。本当にこれまでメニューを見ていなくて損をしていた気分だ。 「おいしそうだね!」  颯真が手早く料理を取り分けてくれる。片割れはそういうところも手際がよく、潤が気が付く頃にはいつも彼の目の前にとりわけ用の小皿が並べられている。 「こうやって潤と外で飯を食うって、今ならデートだよな」  颯真が嬉しそうに言う。 「外で待ち合わせをするのも、いつもと違う感じで楽しいね」  自宅から徒歩五分のところで叶う、ささやかな幸せだ。  たしかに発情期の濃厚な時間も得難かった。でも、こうやって毎日の中で互いの存在を愛おしいと思いながら、他愛ない会話をしつつ食事するのも、大切にしたい時間だ。 「二人とも余裕がないとできないものだよね」  潤の言葉に颯真も頷いた。  それから、食事をしながら交わされた会話は、このあたりの美味しいものの話題ばかりだった。中目黒は、都内でも若者から高齢者まで人気で、美食が集まるエリアとして名高い。 「今度はうまいピザでも食べに行こう。あるんだ、おすすめが」 「そうだね。時間を合わせて行きたい! あ、でもピザなら大人数の方がいいかな」 「じゃあ廉と尚紀も誘うか」 「それいいね」  二人で楽しい時間を過ごしたのだった。  気がつけば久しぶりの外食で、まさにデートにも関わらず「デートみたいだな」と照れて笑い、甘酸っぱい気分になって、互いの右手薬指に光るリングの存在を確認して、幸せな気分にひたる。    楽しい時間を共有し満足して帰宅して、一緒に風呂に入って身体を洗い合い、同じベッドに入った。  颯真と待ち合わせてからここまで、ずっと一緒で楽しい話題ばかりで盛り上がっている。  憂鬱な話題など何一つ持ち上がらなかった。  それが颯真の気遣いであったと気が付いたのは、彼の胸のなかで安堵の吐息を漏らし、意識が落ちるまでのほんのわずかな時間だった。 ୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧ 尚紀の誕生日は3月20日です。念のため。

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