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順番が巡ってきて購入したドーナッツを綺麗にボックスに入れてもらい、自宅へと向かう道すがら。
「そういえば、仕事は順調?」
潤の問いかけに、尚紀は頷いた。
「はい。おかげさまで、復帰作として特集を組んでくれた雑誌『ヴォイス』は、重版がかかったそうです。
……なんか、僕の効果って言われたんですけど、さすがにそれは言い過ぎです」
尚紀はそのように恐縮するが、実際はそうなのだろうなと潤は密かに思った。
雑誌『ヴォイス』とは、二ヶ月ほど前に尚紀が復帰作として選んだ女性誌だ。その撮影には潤も立ち会った。
あのときは、企画内容から項の噛み跡が変わることが読者に伝わるため、ペア・ボンド療法のデータが学会で公表されるタイミングに合わせて掲載するというスケジュールと聞いていたが、その後、尚紀復帰の噂が業界を駆け巡ったことで、記事を温めておくことができなくなり、ペア・ボンド療法の部分のインタビュー記事を削って、発刊を前倒しするという話になった。
実際に掲載号は三月下旬に発売され、大きな話題となり、ヴォイスは書店やコンビニから最新号が消えた。
潤も買おうと思ってコンビニに行ったのだが、在庫がすでになくネット書店も在庫切れを起こしていた。
ヴォイスがないよと尚紀に嘆きの連絡をしたところ、尚紀から数日後にくだんの雑誌が送られてきて、無事に見ることができたのだ。
やはりというべきか、尚紀の項の噛み跡は話題になり、さらにそこからペア・ボンド療法には話が広がっているらしい。具体的な治療方法には言及していないはずなのに、憶測で広がっているようだった。
それは東都新聞社が同時期に連載していた「性差医療を問う」と内容が酷似したためと思われる、というところまでは容易に想像がつく。
しかし、潤はそのあたりには触れたくない。尚紀の復帰は良い知らせなのだから。
「重版が尚紀の特集のおかげか、そうでないかは僕には分からないけど、とにかく尚紀の元気な姿と決意を、予想以上に多くの見てもらえたのは幸せなことだよね」
潤がそう応じると、尚紀が大きく何度も頷いた。
「本当にその通りなんです。
しばらく仕事ができなかったこともあって不安でした。事務所はもちろん契約先のメーカーさんにも迷惑をかけたし。もう忘れられてしまっているかもしれないって。
なのに、実際にあんなに見てもらえて、SNSでも受け入れてくれる声があって、本当に嬉しいです」
潤の脳裏に、ふとあの時の撮影風景が蘇った。
緊張感のあるぴりっとした空間に、いつもとは違う尚紀がスポットライトを浴びている。
モデルのナオキは強くて美しくて、妖艶で逞しくて。レンズを通して様々な雰囲気を見せてくれる。
あの時のナオキは、真摯だった。
「それは、尚紀がいつも全力で真剣にまっすぐ仕事に向き合っているからだと思うよ」
潤はそのように応じた。
「ファンの人たちは、尚紀が戻ってくることを信じていたんだね。きっと待っててくれたんだよ」
「僕は何もしてないのに……」
「ふふ。尚紀は真摯に仕事に向き合うことで、いろいろな人を幸せにしているんだと思うよ、僕は」
「そうだといいな」
そんな話をしているうちに、自宅の玄関前に到着する。
「僕、潤さんち久しぶりです!」
「……そうかも」
尚紀を招き入れるのはいつぶりだろうと考える。まだ颯真と結ばれる前、二月にロイヤルミルクティの淹れ方を教えてほしいと言って訪ねてきて以来かもしれない。
玄関扉を開けてどうぞ、と招き入れる。そろりと尚紀が玄関に入ると、リビングから出てきた颯真が出迎えてくれた。
「おかえり。尚紀、いらっしゃい。どうぞ」
そう言って颯真がスリッパを出すと、尚紀のテンションが上がった。
「わー! 颯真先生、こんにちは!」
その尚紀の喜びぶりに、潤も本当に颯真を慕っているのだなあと、嫉妬心が沸くより先に微笑ましく思ってしまう。
リビングのテーブルで買ってきたドーナッツを皿に盛り付けていると、颯真がお茶を淹れてきてくれた。
「外で気分転換できた?」
颯真の問いかけに、尚紀が頷く。
「はい。まさか潤さんが来てくれるとは思わなくて」
颯真が苦笑して潤に視線を流す。
「すごい勢いで出て行ったぞ」
「だって、一人で並んでるなんて聞いたら驚くじゃん。あの行列に」
「確かにすごい並んでるよな。開店した頃なんて三時間待ちだったとか聞いたぞ」
「すごいですね。確かに僕もそんなに並んでいたら諦めたと思います」
三人で食べるには少し多めのドーナッツを皿に並べ、どれからいく? と尚紀に話しかける。
「僕、このイチゴのがいいです」
そう言って、ピンク色のアイシングがかかったドーナッツを選ぶ。
「イチゴは美味しそうだね。僕はチョコにしようかな」
と潤はビターチョコレートがかかったドーナッツを選んだ。
ふたりでドーナッツにかぶり付く。作りたてのドーナッツは、ふわっとした食感で、じゅわっと甘さが溢れて美味しい。
「おいしい〜」
ふたりで思わず声を上げる。
「お前ら楽しそうだな〜」
颯真がお茶を淹れてくれた。潤と颯真はいつもの愛用のマグカップ。尚紀には江上の愛用のものを出している。
「今度、尚紀のも揃えておこうな」
颯真はそう言った。尚紀が少し恐縮したように礼を言った。
「ありがとうございます」
ストレートティーかと思ったが、カップを近づけるといつもとはちがう香り。アップルの香りがする。潤がそう思っていると、先にお茶に口をつけた尚紀が美味しいですね、と笑顔で反応した。
「アップルルイボスティーですか?」
颯真が頷いた。
「そう。美味しいなら良かった。茶葉も持って帰って」
颯真は、どうやら尚紀が来た時のためにノンカフェインの茶葉も用意していたらしい。我が兄ながら用意がいいと潤は感心する。
「そんなの悪いですよ!」
「え、問題ないよ? だって、尚紀がきた時のために買っておいたんだから」
そんな気遣いに尚紀は戸惑い気味だ。
「ええ〜、……すみません」
颯真にとって尚紀は、自分の患者であると同時に、親友の番で、やはり弟みたいな存在なのだろうと思う。
「きっと、颯真も甥っ子ができる気持ちなんだよ。僕と一緒」
そう潤が言うと、尚紀も頷いた。ありがとうございます、と颯真に礼を言って、マグカップを両手で包んだ。
「体調、悪くなさそうで良かったよ」
颯真が尚紀に話しかける。尚紀もニッコリと笑った。
「はい、僕は元気です!」
「いろいろ考えちゃうかもしれないけど、しんどくなったら廉を頼ってな。妊娠中は番の香りで体調やメンタルが落ち着くことも多いし、番と長い時間を共にするのはいいことだから。
それに、話せば気晴らしになるし、尚紀が甘えてきたら、普通に廉だって嬉しいだろうから、遠慮なく頼ったらいい」
そんなふうに颯真が言う。尚紀もにっこり笑った頷いた。この二人の間……、いや、尚紀が颯真をドクターとして全幅の信頼を置いているのはわかっていたが、実際に目の当たりにすると。
「なんか、颯真ってドクターなんだね」
ふたりのやりとりを聞いていて、思わずしみじみと潤が言う。
すると颯真も言い返す。
「俺は、お前が外で見せてる顔のほうが意外で驚くよ。こんなにマイペースなのによく外で社長が務まるよな。
ほら、チョコが口についてる」
そう言って、颯真が口元に手を伸ばし、チョコを拭ってくれる。それをペロリと舐めた。
それにどきりとする。
「……僕は、オンオフの切り替えが巧いんだよ」
「だな。スーツ姿になると三割増しでキリッとするもんな。スーツと一緒に着ぐるみも脱いでる感じさえする」
「着ぐるみ?」
「うん。中の人が違うくらいお前違うよ?」
颯真が苦笑する。潤が嘆く。
「中の人って……、僕はぬいぐるみじゃないし」
すると尚紀がうふふと控えめな笑い声を上げた。
「尚紀?」
潤の問いかけに、尚紀はくすくすと笑う。
「楽しいです。僕、潤さんと颯真先生がイチャイチャしてるの初めて見るし」
「イチャイチャって……」
言葉を失う潤に、颯真が軽く視線を投げかけてくる。
「兄弟としてならばずっとしてきたけどな」
「うん、こういう時の距離感ってあまり変わっててないかもね」
だって、と尚紀が言う。
「僕、二人が揃ってるところに同席するの、多分初めてかも」
「そうか、なるほどな」
「そっか、なるほどね」
颯真と潤は同時に頷いた。
その反応に尚紀が再びくすっと笑う。
「双子ってすごい。廉さんはずっとこれを見てきたんだ〜。僕はこのおうちの壁になって、ずっと見ていたい気分です」
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