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しかし、その直後。
ニコニコと笑っていた尚紀のテンションが、すとんと落ちたのが潤にもわかった。
何かに気づいてしまったといった感じで、困ったような表情を浮かべ、少しだけ眉根を寄せた。わずかに見せた、なにかに耐え、見つめるような表情に、潤は思わず呼びかける。
「尚紀?」
少し潤んだ視線を潤に一瞬向け、そして眼を逸らして首を横に振る。
「いえ……。なんだか不思議だなって、しみじみ思ってしまって」
突如飛び出した言葉を思わず繰り返す。
「不思議?」
尚紀の表情は少し悲しげで、先程との落差が激しくて気になってしまう。
「ええ。僕が、こうして潤さんや颯真先生とこうして話をしているのが……、うーん、なんか」
尚紀が言い淀む。言葉にするのを苦労しているのが分かる。
「夢のことみたいで。人生ってわからないものだなあって……」
そう言って尚紀は俯いてしまった。
「僕とお二人を繋げてくれたのは、廉さんで……。ここで僕がお二人と楽しくお茶を飲めるのは廉さんのおかげで……。僕は、廉さんに見つけてもらわなかったら、こういう幸せな今はなかったんだろうなって」
すみません、と尚紀が謝る。少しナーバスになっているようだ。
「中学・高校時代。僕たちの学年にとって潤さんと颯真先生と廉さんの三人は憧れの的で、みんな遠巻きに見つめているだけでした。
僕なんかとは住む世界も全然違うから、一生関わり合うことはないんだろうなって漠然と思っていたし……」
確かに、中学時代、颯真は生徒会長を指名されるほどに校内では有名だったし、その颯真に副会長に任命された江上も目立っていた。それにあの二人のアルファの偉丈夫ぶりだ。憧れに思う後輩は多かっただろう。そしてその二人のアルファに守られていた潤もまた目立っていただろう。
多感な思春期に憧れた先輩たちと人生が交差してしまった、不思議な縁をしみじみと思ってしまうのだろう。尚紀自身が波乱万丈な人生を歩んできたからこそ、今の落ち着いた穏やかな生活のなかで、折に触れて思い起こされてしまうのかもしれない。
「そうだね。人生ってどう転がるかわからないよね。僕もそれを実感してるよ」
「潤さん……」
「僕にとって今の尚紀が幸せなことは喜ばしいことだけど、これまでの尚紀の苦労を思うと能天気に今が幸せで良かったね、とはなかなか言えない」
たださ、と潤は続ける。
「尚紀がその時を踏ん張ったから、結果として今の穏やかな生活があるんだよ。きっと僕たちがこういうふうにお茶を飲めるのは、尚紀が頑張って歩んできた先に、偶然ではなく必然としてあったことだと思うんだ」
尚紀が廉と出会わないという人生があったら。
そんな可能性を思いついて、潤も少し身が凍る。尚紀自身の人生が大きく違っていたことはもちろん、尚紀に大いに影響を受け支えられた潤の道もまた違っていたのだろうから。
尚紀のナーバスな気持ちはよく分かる。
「僕が廉さんの番になれたのは、ペア・ボンド療法の治験を受けようと廉さんと僕が決断したからで……」
「うん」
「それを勧めてくれたのは、颯真先生で……」
そこで言葉が止まった。
潤は、その温かい手を優しく握った。尚紀が顔を上げるのを、潤は穏やかな笑みで受け止める。
「うん、それで?」
潤がその先を促すように肯定してみせる。
「廉さんと颯真先生と、そしてペア・ボンド療法があったから……。だけど」
すると、尚紀から思わぬ言葉が漏れた。
「あの新聞の記事……」
それは東都新聞社の「性差医療を問う」連載を指しているのは、潤にもわかった。
「僕は憤りを感じます」
尚紀の告白は意外なほどに静かだったが、きっぱりとした主張で、それゆえに苛烈なものであると潤は察した。
「あの治療法がなければ、僕はもう亡い人の……亡霊のような発情期に未だに耐えていて、廉さんの手を取ることができなかったでしょう。
僕にとって、あれは希望と救済以外の何者でもなかった。命拾いしたといってもいい。なのに……」
潤は、ソファの横に座る尚紀の肩を抱く。
「うん。尚紀のように、ペア・ボンド治療で救われた人たちにとって、あの記事は暴力的だと僕も思う」
潤は尚紀を宥めたくて、慰めたくて肩を抱き寄せ、お腹に手を当て、優しく撫でる。
すると、尚紀が身を預けてきた。
「尚紀」
尚紀は俯いたまま。
「潤さん、ありがとうございます。潤さんの気持ちが、本当に嬉しい」
その一言に少し潤んだものが含まれているようで、潤はそれに気がつかないふりをした。
「うん」
「おなか、気持ちいい」
「よかった」
「もっと……」
「いいよ。いくらでも。気が済むまでさすってあげる」
潤が、尚紀のお腹を優しく撫でる。
「ん……」
しばらくそうしていると、尚紀の身体が少し重くなった。
「眠かったら、ここでちょっと休んだらいいよ。少し疲れたでしょ。廉が来たら起こしてあげるから」
狙ったように颯真が毛布を持ってきてくれた。潤はソファに横になる尚紀にそれをかけて、中に手を入れて尚紀のお腹をさすった。
尚紀は少し疲れていたのだろう、吸い込まれるようにすうっと意識が落ち、静かな寝息を立てている。
「寝たみたい」
潤が呟く。
「そうか。しばらくそっとしておこう」
静かに閉じる尚紀の目尻からは乾かない涙が見えた。
ソファで休む尚紀をそのままに、潤と颯真はダイニングテーブルに移動する。
颯真がお茶を淹れなおしてくれた。潤を気遣うように、濃厚なロイヤルミルクティ。マグカップを受け取ると、ミルクと茶葉の香りがざわざわする気持ちを落ち着けさせてくれる。
一口飲むと、美味しい。少し蜂蜜が入っているようだ。
「ありがとう」
颯真も潤の向かいの椅子に座る。手には同じロイヤルミルクティが入ったお揃いのマグカップ。
「尚紀は……あの記事にショックを受けてるね」
東都新聞社の記事が意外なところに、大きな影響を与えていて、潤としてもショックだ。
颯真は真剣な視線を尚紀に向ける。
「お前だから言えたんだろう」
俺の前では何も言わなかったと、颯真は言った。きっとあの記事の反響の大きさに、尚紀も素直な感情を見せられなくなったのだろう。
「ペア・ボンド療法は、劇的な効果が得られると期待される一方で、患者のオメガには精神的、肉体的な負担が大きくのしかかると最初からわかっていた治療法だ。それは番候補のアルファも。
彼らは効果があるかわからない中で治験に参加した。可能性があるならばと運命を切り拓くことを望んだ人達だ。その彼らが傷ついている」
諦めない強い人達が傷ついている、そういう記事だったと颯真は淡々と語る。
同じような声がきているのかと問うと、いくつか聞いたと答えた。
「ただ、悲しいかな、あの記事は世間一般、大多数のベータに向けたものであって、当事者には向けられていない。完全に無視だ」
「うん」
「大きなリスクを背負って新たな人生を踏み出した人たちが、自分たちの決断を否定されたと思っている。
彼らのためにも、誤解を解かねばならないよな」
颯真の静かな言葉に、潤も頷いた。
「声高々に語られることが、正しいこととは限らないもの」
来月半ばに横浜で開催されるアルファ・オメガ学会で、ペア・ボンド療法の最初のデータが発表される予定だ。やはり正しい情報を広く伝える必要がある。
「誠心医科大学とメルト製薬、そしてうちでちゃんと考えないといけないね」
潤がそう言うと、颯真も頷く。
「そうだな。片桐さんにも相談したほうがいいかもな」
メトロポリタンテレビのディレクター、片桐要。彼はメディア側の人だが、スタンスとしてこちらに深く肩入れをしている様子。協力を取り付けることができれば、これ以上に心強いことはない。
「彼らは、自分たちの行為が当事者を傷つけた事実を知るべきだ」
颯真の言葉は厳しい。が、潤も頷いた。
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