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年度が改まると、社内外で、とくに社外での会合が増える。
「それでは今期の理事は以上の皆様に決まりました。どうぞ、よろしくお願いいたします」
大きな拍手が湧き上がる。
東京・大手町の経済団体所有のビルの大会議室。六十人以上の聴衆のなか、潤は立ち上がって、周りに向かって会釈をしていた。
日本製薬企業協会は、国内の製薬企業が多く名を連ねる企業団体。森生メディカルももちろん加入しており、今日はその総会に出席している。これも社長の仕事だ。
この団体は、日本で新薬を開発・販売する製薬企業のほとんどが入っていて、行政に対する政策提言や一般に向けては薬剤の適性使用情報の啓発などを行っている。業界の主軸となる企業団体だ。今年度の日本製薬企業協会の理事に潤は就任した。
とはいえ、この団体の役員は、会長以下、副会長、常任理事、理事とあり、会員会社の社長の半数ほどがいずれかの役割を担っているという、人数の多さが特徴であるため、若いとはいえいずれは巡ってくる役目ではあろうなと思っていたところ。年度の切り替わりで、打診が来たのだった。
散会となり、参加者が席を立ち上がりざわつき始める。潤も緊張が解けて、思わず背伸びをすると、背後から「森生社長」と、名を呼ばれた。
その声には記憶があり、潤も気軽に振り返り、席から立ち上がった。
「長谷川社長」
メルト製薬社長の長谷川孝太郎だった。
ロマンスグレーの髪はきっちり綺麗に整えられており、今日はスリムすぎないがすっきりとしたラインのダークブラウンのスリーピース姿。相変わらず清潔感があって品が良い。
外資系企業ではあるが、メルト製薬も日本製薬企業協会には所属していて、長谷川は数人いるうちの副会長をしている。
メールや電話でやりとりはしていたものの、長谷川と実際に会うのは、三月の上旬に開かれたペア・ボンド療法のスタート会議以来なので約一ヶ月ぶり。
「森生社長、理事への就任おめでとうございます」
長谷川にそう言われて、潤も素直に礼を言う。
「ありがとうございます。たいぶ若輩ですが、よろしくお願いします」
来月の誕生日でとうとう三十になる。しかし、周りの社長をみるとやはり目立つくらいに若いのだ。
長谷川は小さく笑う。
「ははは。森生社長は格段にお若いから、このような企業団体の理事職は周りを見て少し気後れしてしまうかもしれない。でも、若いけれど豊富な経験を活かして新しい風を入れて欲しいですね」
長谷川はどうやら茗子に続き潤のことも買ってくれているようで、優しい言葉をかけてくれる。
「まだまだ古い体質が残っている業界です。新規参入も難しい。森生社長のような方は貴重ですよ」
新規参入が難しいのは確かだし、周りを見ると、若手社長と言われる人でも四十代、五十代と、潤と比べて一回り以上も年齢が離れている。
「長谷川社長も、社長就任の頃に新鮮で大きな風を期待されたのでしょうね」
今から二十年以上前のこと。長谷川は懐かしげな表情を浮かべた。
「わたしの頃は、本当に出れば打たれる杭でした。あの頃のわたしの年齢でもね。でも、今は昔ほどの拒絶反応はないと思います。存分に能力を発揮していただきたいですねえ」
二人で大会議室を出てロビーに向かう。
やはり話題は、ペア・ボンド療法になってしまう。来月の五月半ばに横浜でアルファ・オメガ学会が開催され、そこで誠心医科大学とメルト製薬の開発チームの連名でペア・ボンド療法の重症オメガ患者を対象とした治験結果を発表する予定になっている。
当初は、登壇発表のみで終わると考えられていたのだが、ここしばらくの反響の大きさから発表とは別に研究報告会と称する記者会見が必要だろうという声が上がっている。
それはもっともな話で、学会の事務局からも開催に対して了承の旨をもらい、さらに両者に加え森生メディカルも参加することになり、話が詰められている。
そこに長谷川の勧めもあって、両社のメディカルアフェアーズと広報が参加することになり、わりと大掛かりなプロジェクトチームが発足した。
「やはりピーアール会社を入れてよかったですね。餅は餅屋、その通りだと思います」
そこに片桐が勧めるピーアール会社を入れることを提案したのは潤だった。ピーアール会社は様々な広報活動を請け負い、専門的なアドバイスや企画を提案してくれる専門家。このような医療や医薬分野の広報活動に特化した会社もある。
「願わくば学会が開かれる頃には、少し平和になっていてほしいですね」
潤がそう言うと、長谷川もそうですねと苦笑した。
「このテンションでいかれると、いささかしんどい」
藤堂が率いる森生メディカルのメディカルアフェアーズ室は、人材を集めながらの初仕事となるが、潤の元には少ない精鋭組織ながらもメルト製薬側のメディカルアフェアーズとも連携をとりつつ、存在感を見せているという報告が上がってきている。
藤堂は、期待以上の成果を上げてくれているらしい。
そんな立ち話をしていると、すっと長谷川の元に寄ってきたのは彼の秘書である風山である。
「……ご歓談中のところ、大変申し訳ございません。社長、そそろそろ……」
そのように長谷川を促す。
「そうか、わかった」
風山が、森生社長、申し訳ございませんと丁寧に一礼した。長谷川も、申し訳ありませんが、タイムアップのようですと潤に謝罪する。
「いえ、また近くお会いできると思いますので」
すると、長谷川が意外なことを返してきた。
「お会いする前にメールをしますよ。多分ね」
たしかに。東都新聞社の連載記事の内容について、長谷川とはかなりメールのやり取りをしたことを思い出す。
「そうですね。ぜひ。でも、次はもう少し明るい話題でやり取りをしたいですね」
長谷川は小さく笑う。
「違いない」
それではと軽く手を挙げて長谷川は去っていった。
時計を確認すると、次の約束までもう少しある。このロビーで待ち合わせをしているのだ。それまでに整えようと、手洗いに向かおうとしたところで、再び背後から呼び止められる。
「森生社長」
あまり頻繁に聞かないが、確かに知ってはいる者の声。聞かなかったことにはできないよな、と一瞬考え、それを打ち消す。
それほどまでに潤にとっては憂鬱な相手であると、呼びかけの声を聞くだけで分かってしまった。
無視したい気持ちを押し隠し、わずかに深呼吸。
そして、潤が振り返ると、やはり。
目の前にいたのは、恰幅のいい男性。
表情からして、傲慢で強引な性格が見て取れる。自信に満ちており、こちらを完全に見下ろしている。
湧き上がる嫌悪感を、ぐっと押しつぶした。
「どうも。大路社長」
東邦製薬の大路泰三だった。
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