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潤にとって、東邦製薬の大路とは特段に会う要件はないので、年明けの賀詞交換会以来だが、あの時もこのような不遜な印象の態度であったことを思い返した。
この人の年齢はおそらく母親の茗子と同じくらいかもしくはそれ以上。もしかしたら長谷川と近いか。そう考えると、人生はもちろん経営者としても先達であり、その一点だけでも敬意を示すべきなのかもしれないが、どうしても抵抗感がある。仮にも他社の社長を最初から見下してくる態度が気に入らない。年齢だけで判断されているというのであればなおさら。
同業他社の社長であるにも関わらず狭量な対応をされることに不満があるので、相手の不興を買うことを言ってしまいそうで、冷静になれと自分を宥める。本当にこの人物は要注意だ。
「……お久しぶりです」
「森生社長は、社長に就任されてさほど経たずにこちらも理事になられるとはなあ」
何が言いたいのだろうと思うが、潤は控えめに対応することにした。
「若輩ですがよろしくお願いします」
「うむ」
同じようなやりとりなのに長谷川とは大違いだ。この人はこのような反応が不遜な印象を与えるのだろう。
他社の社長である潤がそう思うのだ。身内である東邦製薬の社員への扱いなんて想像に容易い。若手や中堅は同じようなことを感じているのだろうなと思うと少し気が晴れた。
大路もまた、この団体で数人いる副会長のうちの一人だ。生活習慣病や抗生物質など、一昔前は大きな売上げ規模を誇る製品を扱い、その手腕を振るっていたのだから。
「森生社長も、一般企業であればまだ課長にもなっていない年齢ですからな」
一体何が言いたいのかと思わず眉を上げそうになったが、大路はそんな反応も気にしていない様子。世間的にはたしかにそのような年齢にすぎないが、言葉の端々に、来月三十になるという潤の年齢だけを小馬鹿にするような真意を感じる。
いちいち気にするのも馬鹿馬鹿しいが、隣に江上がいたら静かに怒るだろうなと思い、少し気持ちも慰められた。
それにしても、何故大路は話しかけてきたのか。
「大路社長、なにか私に御用でも?」
潤がそう不快なやり取りを断ち切ると、彼も本来の目的を思い出した様子。
「そうだった。もちろん、お一人だったから話しかけたというわけでもありません。
森生社長にお会いしたいとここに来た人間がおりましてな……」
自分に会いたい人物。
誰だろう。
この大路を介してとなると、想像がつかない。
そう記憶を巡らしていると、大路の背後から姿を現した人物。
その姿に、潤は言葉を失って驚き、繕うことを忘れそうになった。
「森生社長」
潤は動きが止まった。
「佐賀……さん……」
かなり容貌が変わってしまったが、それはかつての部下である、佐賀安則。
それまで度々、望んでもいないにも関わらず消息が引っかかってきていた佐賀だったが、直接姿を見るのは、あのクリスマスイブの取締役会の朝以来のこと。
社長室に乗り込み、鍵をかけられ、注射器二本分のフェロモン誘発剤「グランス」を打ち込まれたあの出来事が、否応なく脳裏に溢れかえってきた。
いや、違う。具体的には、自分への不満を語っていたときの、見開かれた異様な目と、注射剤を打たれた時、彼が一瞬だけ見せた、歓喜と興奮が混じったような残酷な笑み。
ぐっと思わず息を飲み、やり過ごす。苦いものが喉を落ちる感じがする。
「お久しぶりです、森生社長」
佐賀から発せられる言葉は、あの頃と同じ。でも、口調は全く違っていた。隠しもしない慇懃無礼な口調に、嫌悪感も加わる。
「……なんで、こんなところに」
ここは経済団体所有のビルだ。当然エントランスには受付があり、フラップゲートもあってセキュリティも万全だ。
受付で身分を明かし、そこで渡されるセキュリティカードをかざさないとフラップゲートは開かない。ここには関係者しか上がってくることはできないはずなのに。なぜ、無職の人間が上がってくることができているのか。
かつて潤は江上から佐賀がオルムの事務局を訪ねる姿が目撃されていると報告を受けた時、身辺的にかなり荒んだ姿であったという情報も併せて聞いていた。想像ではあるが、傷害事件は和解に至ったものの、会社は懲戒解雇となり、精神的なショックで生活が乱れたのだろうと思った。社会的制裁を受けたのだから当然だ。
しかし、目の前の佐賀や以前のようなきっちりとしたビジネスマンとしての雰囲気ではないものの、荒んだ雰囲気ではない。
森生メディカルの取締役をしていた頃は黒髪をなでつけて、きっちりスーツを身に纏っていたが、今は髪が少し後退しグレーのものが多く混じる印象に。カジュアルなジャケットを羽織りこざっぱりしているが、髪型や目つきが以前とは少し違う気がする。
「ああ、こんなに私がここにいるのが不思議ですか? まあ、私もお陰様で年明けに無職になりまして。オメガのあたなに、誘発剤を打っただけなのに、仕事も社会的な信用も失ってしまいましたよ」
佐賀はあえて繰り返した。
「オメガのあなたに、誘発剤を打っただけなのに」
驚くようなことを言われて、思わず厳しい視線を潤は佐賀に向けてしまった。しかし、佐賀はそれを楽しそうに受け止めた。
「おや、ご不満のようですね。誘発剤は毒物じゃありません。あなたを殺そうとしたわけでもないのに。むしろ、そのような仕打ちはあんまりではないでしょうか。私は被害者ですよ」
その反応があまりに暴力的すぎて、潤は大きな衝撃を受ける。しかし、これはオメガである自分と、オメガを否定する人間の間に存在する溝であり、全く共通言語が異なる相手の戯言だと、なんとか気持ちを立て直した。
「……で、今更なんですか」
「もちろん、私が受けた仕打ちについて何かをするつもりはありませんけど……。
今回私があなたにお会いしたかったのは、幸いながら再就職先も決まりましたので、ご挨拶に伺いたかったのです」
潤も反撃に出る。
「本当にどうでもいい話だ。
もうあなたの消息など興味はないし、顔も見たくない」
攻撃的に潤がそう言い捨てると、佐賀は一瞬むっとした表情を見せてからニヤニヤとした表情を浮かべ、名刺を差し出した。
潤はなぜこの人物の再就職を知らされなければ成らないだと思いつつ、その名刺に視線を移し、言葉を失った。
「NPO法人オルム 事務局長 佐賀安則」
潤は受け取ることはせず、無言のまま佐賀を見据えた。
「またお会いすることもあるでしょう。何せ御社はペア・ボンド療法に足を突っ込んでおられる」
それは、どういう意味か。その表情を読み取ろうとしたが、難しい。
「もう、顔を見せるな」
そう切って捨てると、本当にきついですなあ、と佐賀が嘆いた。
「社長、そんなにきつい性格でしたっけ」
このやりとりが戯れのように思えて、気分が悪い。潤は無言で、佐賀を見据えた。
すると、それまで慇懃ながらも友好的で紳士的な顔を見せてい佐賀が、いきなり潤のスーツの襟元をつかみ、壁に押し付けてきた。
「!!」
周りに人がいなくなったその隙の出来事だった。
潤も小柄ではないし、力が弱いわけではない。しかし、佐賀のその行為は、警戒をしていても突然で、不意を突かれた。
押し付けられた背中が痛い。
佐賀が顔を近づけて、潤の前で不敵な表情を見せ、唸るような声を出した。
「俺は許さんっ!
グランスを打ち込まれるくらいがまだマシだと思えるような目に遭わせてやるから、楽しみにしておけ」
思わず目を見張り潤は息を飲んだ。
まだ、やるつもりか。
そう目で語ってしまった気がするが、佐賀は何も答えなかった。
雰囲気で圧倒されたことが悔しくて、潤は一瞬の馬鹿力で、振り切るように身を捩らせて自由になる。
佐賀もその反応に押さえつけることはしなかった。
しばし無言のまま、睨み合いが続いた。
それは潤にとって一瞬の出来事だったのかもしれないが、とてつもなく長い時間にも思えた。
佐賀の目を睨み据える。
「あ、森生社長!」
背後からかけられた、その明るい声で、ナイフのような空気が切り替わった。潤は我に返り、少し救われた気がした。
思わずその声の方向に視線を向けると、やはり。待ち合わせをしていた片桐の姿が見えたのだ。
片桐が相手に気がついたようで、駆け寄ってくる。
「これは……意外な方が」
片桐と佐賀は、面識があるらしい。
「あなたは……確か、メトロポリタンテレビの片桐さんでしたっけ……」
佐賀は、所属と名前まで認識している。
「先日はどうもありがとうございました」
「その後、取材は順調ですか」
「お陰様で」
「それは何より」
他愛ない会話が交わされ、佐賀の異常は攻撃性が身を潜める。
それではと佐賀と大路が去るのを見届けて、潤は大きなため息をついた。
「社長……大丈夫ですか」
片桐が潤を気遣った。
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佐賀氏が最後に出てきたのは1章18話です(随分前…)
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