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心配そうな表情を見せる片桐に、潤は顔を上げて笑顔を作る。
「すみません。大丈夫です」
あの男の言葉に衝撃を受けていると、知られたくなくて、とっさに強がった。しかし、もし隣に颯真がいたとしたら、それは容易に崩壊して、片割れの胸にもたれかかってしまうほどの衝撃は受けている自覚があった。
佐賀に捕まれた胸のあたりを、なんとなく手で庇い、呼吸を整える。
そんな潤の反応に気づかないふりをしてくれたのか、片桐はそれならば良かったと頷いた。
潤が製薬企業協会の会合の後にロビーで待ち合わせをしていたのが、片桐だった。
潤が落ち着いたのを確認した片桐は、場所を移しましょうと提案してきた。潤も異論はない。どうしても先ほどの佐賀と大路の姿が脳裏をちらついてしまうため、気分と空気を変えるために外に出ることにした。
このビルの向かいに外資系のラグジュアリーホテルがある。そのラウンジならばちょうど良いかもしれない。
このビルには階下に喫茶店やカフェもあるが、大手町という立地上、近くに大手新聞社……はっきり言えば東都新聞社の本社も近く、正直どこに耳目があるか分からない。手狭なカフェで不用意に話すよりも、きちんと席の間隔が取られ、プライベートが守られる場所で話す方が安心感はある。
警戒しすぎかもしれないが、先ほど目の前に現れるまで佐賀に気がつかなかったのは事実なのだから。
向かいのホテルのラウンジは上層階にあり、期待した通りの広々とした空間で、窓からは皇居を中心した都会の街並みを見渡すことができた。
潤と片桐は窓際の四人掛けのソファー席に案内され、コーヒーとホットティーを注文した。
ウエイターが離れると、片桐の表情は変わった。
「先ほど、大路社長と佐賀氏とはどのようなお話を?」
「聞きたいですか」
「差し支えなければ」
そう言ってから、片桐は気づいたように手のひらをかざした。
「あ、興味や取材目的というわけではありません。
僕も心配してるんです。社長、顔色が悪いですよ」
思わず潤は、顔に手を寄せる。
「あれ、そうですか」
片桐は無言で頷いた。
そう生真面目に心配してくれる姿に、潤は少し気持ちが緩んだ。
そういえば、彼には以前、取締役会の前に佐賀からグランスを打たれたことを話していたのだった。
「佐賀さんの……彼の主な目的は、オルムの事務局長に就任したという挨拶だったようです。それも驚きましたが、グランスを打ち込まれるのがまだマシだと思えるような目に遭わせてやる、とも言われました」
潤が早口で白状すると、片桐が眉間に皺を寄せる。
「えっ、脅迫でしょう、それ」
「そうかもしれません。ただ突然だったので言ったとか行ったという証拠はありません。結局訴えても水掛け論になりそうです。どうにもなりませんけどね……」
潤が淡々と答えると、片桐は困ったような表情をみせた。今のところ対応のしようがないのだ。
「大丈夫です。ちょっと驚いただけです」
そう、佐賀が自分に対して憎しみを抱いているのは知っているのだから、と潤は言い聞かせる。
「社長、くれぐれも気をつけてください」
「ええ。ありがとうございます」
心配そうな片桐に、潤は軽く頷いた。
「電話でもお話ししたのですが、先日オルムに取材に行ってきました。その時の話をと、今日は思っていました。なのにまさか、その事務局長と目の前で会っているとは思いませんでした」
潤は苦笑した。
「僕も思いませんでした」
先ほどのウエイターがホットコーヒーとホットティーを提供した。ホットティーはポットでの提供だ。ウエイターが丁寧な手つきで白いティーカップに注いでくれた。
華やかな香りが立つダージリンを一口含んで、ほっと気持ちを落ち着ける。やはり衝撃的な経験だったのか、無意識に緊張していたようで、ダージリンの香りと紅茶の温かみでこわばっていた身体から力が少し抜けた気がした。
「私がオルムを取材したのは先週ですが……」
片桐の言葉に、潤もティーカップをソーサーに置いて聞く体勢を整えた。
「出てきたのは、あの佐賀氏でした。
一日付で事務局長に就任したのでご挨拶ということで取材に対応してくれました」
もちろん片桐は森生メディカルの前取締役であるという佐賀の経歴は知っているのだが、なにもしらないふりをして、経緯を聞いてみたという。
「年明けに仕事を失ってしまい、失意のなかでこの団体にたどり着いたそうです。初めてこのような団体があることを知り、救われた気分で通っているうちに、自分の経験を活かし内部から支えたいと思うようになったと話していました」
そんなもの、すべて自業自得ではないか、と潤は思わず言いかけるが、それを片桐は止めた。
「いや、社長がおっしゃりたいことはわかります。本当にその通りなのです。しかし、人は見たいものしか見ないし、彼らは特にそういう人種です」
真面目に反論される。
「今回の取材でそれを実感しました。我々はそういう人たちを相手にしていると改めて認識したんです」
窓から差し込む陽光が、まっすぐな視線を向けてくる片桐の顔を照らす。
片桐は、我々、といった。
潤は、無言で頷いた。
「NPO法人オルムは、もともとオメガの人たちのフェロモン療法について否定的な見解をとっている団体であると以前お話ししたと思います」
確かに。潤は頷く。
オメガは、アルファやベータが生活しやすい社会に対応するために無理に薬剤でフェロモンを管理し、身体を酷使しているという問題意識が根底にあるという団体だと聞いていた。
そのような形に進めているのが、政治家や厚生労働省、医学界、製薬業界であると。
それらの利権の亡者からオメガを守るための運動であるから「オルム(オメガ権利回復運動)」という団体名であるという建前を聞いた。
オメガは昔のように自然に訪れる発情期を受け入れ、自然な営みの中で、アルファに望まれるまま抱かれ、子をなすのが幸せだと、主張していた。
「彼らがフェロモン療法を否定的に言うのは人為的なコントロールは好ましくはなく自然な行為ではないから、というのがあります。
それに加えて、聞いてみると、アルファ、ベータ、オメガはそれぞれ持つ能力と役割が違うため、適材適所であるべき、という考えもあるようなのです」
「適材適所であるべき……?」
潤は眉根を寄せた。意味がわからない。
「ええ、例えばアルファであれば生まれ持った能力により人の上に立つ性とされます。実際に早くからその能力を発揮できるよう、制度は整っている。そして。ベータはそれに追従する性です。彼らの強みは圧倒的多数であること。……ならばオメガは? となります」
その論理は昔から言われている。オメガは男女ともに保護性とされ守られる立場である一方、偏見も根強い。
「彼らは、オメガは社会的な生産能力が低いと見ています。でも、オメガの隣には常にアルファがいて、アルファのおかげでオメガは社会的な権利を享受することができている。だけど、オメガはその得ることができた権利をきちんと社会に還元しているのか。そこで出てくるのが『適材適所』という考え方です」
「よくわかりません」
潤が率直に告げる。
「アルファやベータのように社会に貢献できる、オメガが持つオメガ自身に適した能力。それは、今後社会に大きく貢献するであろうアルファを産み増やすことができるというもの。もちろんベータの女性も可能ですが、確率が圧倒的に違う。オメガはその能力をもって社会に寄与するべきではないか、というのが主張です」
片桐は早口でまくしたてた。
「はあ?」
潤は呆れ返り本音を漏らした。なんて視野が狭い話だろうか。社会にはさまざまな人がいる。働ける人もいれば働けない人もいるし、働かない人もいる。それが多様性だ。
アルファ、ベータ、オメガという単なる第二の性だけで、人を型にはめて何が楽しいのか。
「社長のお気持ちはわかります。それでもそれを信じたい人がいるから、あの団体が成り立っているのです」
オメガレイシズムが歪んだ形であると思いますと、片桐は結論づけた。
「だから、フェロモン療法には否定的で、発情期を受け入れろという話なんですね。オメガは孕めよ産めよと……。ならば、なぜペア・ボンド療法は歓迎ではないのですか」
それに関して片桐が唸った。
「ペア・ボンド療法は自然ではないから許されないと言っていました」
「要するに、オメガに選択肢があるのがいやなのでしょうね」
潤はうんざりして、結論づけた。
「馬鹿馬鹿しい」
「社長が仰るように非常に馬鹿馬鹿しい話です。しかし、先ほども言いましたがそれを信じたい人たちがいて、その考え方は、閉塞した社会のなかで、ベータの人たちから一定の支持を得ている」
いつかだったか、颯真や和泉はアルファとオメガはこうあるべき、という理想の形があるという話をしていた。それはベータの思い入れのようなもので、信じたい理想だ。
悪役はあくまで、行政や業界側。仕立てやすい配役だ。そしてそれを、ネットやマスコミで喧伝すれば、容易に信じる人はいる。
佐賀と東都新聞社は、西宮を通じて繋がってる。
「なんとなく……見えてきましたね」
潤がそう呟くように告げると、片桐も頷いた。
「彼らにとってそれが『正義』です。人は見たいものしか見ません。本当に厄介な相手です」
片桐の嘆息に、潤も深く頷く。カップを手にして、少し冷めたダージリンティーを口に含む。柔らかい春の昼下がりの日差しのなか、潤は激しく憂鬱な気分に襲われていた。
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オメガの活動内容について(片桐が潤に話していたのは)第2章34話、颯真や和泉がオメガを取り巻く環境について懸念を見せていたのは、3章18話、3章28話あたりになります。
復習されたいというありがたやな方はぜひどうぞ!
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