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その後、片桐とはその場で別れた。次の約束があるのだという。そろそろ夕刻という時刻になっており、帰社して仕事をすると夜までコースになりそうな予感がする。
そこで江上に連絡を入れ、直帰の許可を得た。会合が少し長引き、疲れたので急ぎの要件がなければ帰ると伝えると、社用車を回すかと聞かれる。それを待つ気分になれず、タクシーで帰ると伝えた。
ここからであれば大手町から日比谷で乗り換えれば中目黒まですぐだ。いつもならば電車で帰るというのがまず最初に出てくるのだが、不思議とその発想は出てこなかった。
何かあったらスマホに連絡をしてと言い添えると、秘書からお疲れ様でしたというねぎらいの言葉をもらい、通話を終える。
ロビー階に降りると、そのまま車寄せに停まっていたタクシーに乗り込む。ドライバーに自宅の住所を言いかけて僅かに止まり、中目黒駅前を指定した。
車両の自動扉が閉まり、夕刻の車の流れに滑り込む。
潤は座席に身体を預け、深く息を吐いた。そして、車窓に目を向ける。帰宅ラッシュよりは少し早めの風景をぼんやりと視界に納めて、陽が伸びたな、とぼんやりと思った。
中目黒駅の前でタクシーを降り、そのまま潤は足早に自宅に向かう。駅前は平日にも関わらず結構な人出があるが、スーツ姿のサラリーマンは少ない印象だ。
セキュリティが厳重なマンションのエントランスに入り少しホッとし、さらにエレベータで上層階に上る。自宅の鍵を開けて玄関に入り、鍵を閉じて、ようやく潤は大きく安堵した。
一気にここまで帰ってきて、疲れがどっと出る。片桐と別れてからここまで異様に緊張していた。それが解けて思わず玄関先に座り込んでしまうが、ここまできたらもう一踏ん張りと、立ち上がる。
何かに当てられたように、異様に疲れている。
少し休んで回復したい。
そう思って、自室に入り、惰性のままネクタイを解き、スーツを床に脱ぎ捨て、ワイシャツのボタンをいくつか外してベッドに入る。
布団の暖かみに身体の力が抜け、ようやく無防備に安心できるテリトリーまで戻って来れたことを実感して気持ちがほぐれた。
枕に顔を埋めて、そのまま意識を失うように眠りにつきたいのに……。
暗闇の中で思い浮かぶのは、今だけ距離をとっていたい片桐の話だった。
片桐の言葉に、ずしんと胃にのしかかるような重みを感じた。
「それが彼らにとって『正義』なんです」
それぞれが思う「正義」。そんなものを掲げていては容易には引くことができず、歩み寄ることも変えることも難しい。
そんなものを相手にしなければならないのか。
本当に厄介な相手としか表現できない。
彼らの正義は、オメガの潤には受け入れられない。それを共感し受け入れる人たちがいるということに恐怖を感じる。
これまでの人生で理解しあえない人というのはいた。ちょっとしたボタンの掛け違いで引けなくなったり、縁遠くなってしまったこともある。
しかし、身の危険を感じるような敵意に晒された緊迫感のある感覚は、これまであまり記憶にない。
きっと彼らにとって、ペア・ボンド療法を進め、抑制剤を売りまくっている製薬企業の社長で、自身の性別もオメガなど、憎しみの対象以外何者でもないだろうから。
そんな不特定多数の憎しみの目が、不意に佐賀の表情にとって変わった。
迂闊だった。
どうしても不意に蘇る。あんな至近距離に、また、あの男を入り込ませるなんて。
潤は寝返りをうつ。どうしても不意に蘇る後悔に身が捩れそうになる。何であんなに警戒していなかったのだろうと。
あのグランスを打たれた時の佐賀の異様な目の光。それを潤は、再び見た気がした。
脳裏にこびりついてしまっている、忘れてしまいたい嫌な記憶を無理矢理に刺激されたようで、潤はこの上なく憂鬱になる。
思い出して寒気。
異様に爛々としているあの目が気味悪い。本音を認めてしまえば、あのような人間に憎まれ、粘着されて、関与されるということに恐怖心が芽生えた。
「俺は許さん。グランスを打ち込まれる方がマシだと思えるような目に遭わせてやる」
実際に佐賀が本当に仕掛けてくるのか、何を仕掛けてくるのかはわからない。ただ、それほどに自分は憎まれているのだと思った。
かつては上司と部下であり、彼が森生メディカルを解雇となった理由は正当なものだ。逆恨み以外何者でもない。
恨みを向けられる謂れはないから、堂々としていればよい……。自分は間違っていない。
理屈の上ではその通りなのだが、果たしてそれが通じる相手なのだろうか。
ぐるぐる潤は考える。何も考えたくないのに、今日の出来事があまりに衝撃的で、脳が休まってくれない。
今日の片桐との話は、おそらく過不足なくちかく佐賀の消息として飯田や大西、江上にも共有する必要があるだろう。
傷つき、不安になっている自分の姿を、会社の部下たちには見せられない。せめて今はリカバリーして、明日みんなに冷静に伝えられるように体勢を整えたいのに……。
だけど、何よりそんな姿を見せたくないのは颯真に対してなのかもしれないと潤は思う。
先月、片桐に佐賀との関係を打ち明けた際、成り行きで佐賀にグランスを打たれた時の緊迫した様子を知らせてしまった。
颯真はあの発情期の一部始終を知っているから、自分と同じような気持ちを辿ってしまうだろうと思った。
だからもう佐賀の話はしたくなかった。颯真に自分のことで辛い思いはさせたくない……。
ただ、江上に話す以上、颯真に伝わらないはずがないわけで。
江上から颯真に伝わる前に、自分から話してしまった方が、フォローもできるしベターな対応だろう……。腹を括らねば……。
そんなことを、潤はしばらくうだうだと考えていた。
「潤」
優しい声が呼んでいる。そう思って、少し目を開けると、やはり目の前にいたのは片割れ。
スーツ姿、ということは今帰ってきたのだろうか。……まだ夕方だ。ずいぶん早いな、と潤は思った。
しかし、うっすら目を開けてみると、さっきまで夕闇で薄暗かった部屋は、完全に陽が落ちて暗くなっており、時間の経過を伺わせる。
「……あ……れ……なんじ?」
少し掠れた声で問いかけると、夜九時と返ってきて驚く。ぐるぐると思考に嵌っていたような気がしていたが、実際はうとうとしながら半分夢うつつで眠っていたようだ。
……寝たはずなのに、休んだ感じがしない。
「大丈夫か?」
体調悪い? と颯真が聞いてくる。
潤は大丈夫と答えながら、寝返りを打ち体勢を整える。
颯真にちょっと診せて、と言われ脈を取られ、額に手を乗せられた。
ワイシャツのまま寝ているから、体調が悪いのではないかと思われたのかもしれない。
布団に入り込んでくる颯真の手が温かい……。
「風呂入った?」
首を横に振る。もう寝たい、と潤は訴える。
すると颯真が、俺もここで寝ていい? と聞いてきた。
「……颯真も?」
潤が顔を上げる。
「うん。潤の部屋のベッドは少し狭いけどな。くっ付いてれば問題ないだろ?」
そう言って、颯真は姿を消し、数分で戻ってくる。いつものパジャマを着ていた。
潤が身体を少しずらして場所を空けると、颯真が入ってきた。暖かくて安心できる。
「うわ。お前、ホントにシャツ一枚か。風邪ひかないか? 大丈夫?」
ワイシャツ一枚で寝ていることに驚いた颯真。そうだろう、いつもはちゃんとパジャマを身に着けないと落ち着いて寝られないタイプなのに。
「……うん、颯真があったかいから平気……」
思わずスーハーして颯真の香りを堪能する。潤が颯真の背中に手を回し、とんとんと背中を叩いてくれる。
「颯真……」
胸に顔を埋めて名を呼ぶ。
「うん?」
「今日、佐賀さんに会った」
颯真が少し止まった気がした。
「……佐賀さんって、あの?」
そのまま頷いた。
「……うん」
そしてどう話そうか迷っていると、颯真がポンポンと慰めるように身体を叩いてくれた。その行為に颯真の気持ちを感じて、潤は思わず深く息を吸って、込み上げる感情を落ち着けた。
「そうか。……大変だったな」
「ん……」
「ここでゆっくり寝て。朝になったらその話をちゃんと聞かせて?」
「颯真……、ありがと……」
「明日、一緒に風呂に入ろうな」
「うん」
潤は安堵に包まれて頷いたのだった。
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