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森生メディカルの社長専属ドライバーは時間に正確で、毎朝七時ちょうどには自宅マンション前の車寄せにレクサスを停めている。
潤も、待たせるのは悪いからと、その時間に合わせて下に降りることにしている。
しかしその朝、潤が姿を見せたのは七時十分すぎ。いつもより十分ほど遅れていた。
ドライバーはいつもの通り、車から降りて後部座席のドアを開けて待つ。
「おはよう」
潤がそう挨拶すると、彼もおはようございますといつものように挨拶した。
「少し遅れちゃったね。ごめんね」
待たせて申し訳ないとそう謝ると、彼は苦笑した。
「社長を時間通りにお送りするのが私の仕事ですから、お気になさらないでください。急いで向かいますね」
車窓が動き、レクサスが静かに発進する。
もう陽がすっかり昇り、青空が見える。昨日も思ったが季節は移ろっているなあと思う。
今日は水曜日。出勤が遅れたのは、疲れが溜まって寝坊したわけではなかった。先程まで、颯真が離してくれなかったのだ。
つい五分ほど前まで颯真の温もりに包まれていた。
やっぱり心配をかけたようで、うまく伝えられなかったかなあと反省する。今夜もう少し話してフォローする必要があるかなと考えながら、スマホを取り出した。スマホのカレンダーの予定表には詳細なスケジュールが入っていて、江上と連携されている。
今日も予定が詰まっていたような気がするが、どこかで飯田や大西と話す時間をとらねば……。
そんなことを考えながら車窓を眺めていると、次第にいつもの見覚えがある街並みに変わっていき、森生メディカルの地下駐車場に到着した。
このあたりまでくると、気持ちはすでに日常の仕事モードに切り替わっていた。
ドライバーに礼を言って別れ、そのまま一階に上がって隣のコーヒーショップへ。開店すぐのモーニングタイムに店番をしている青年といつもと同じように挨拶を交して、ロイヤルミルクティをテイクアウトし上層階に上った。
潤が仕事を始めてしばらくすると、江上がやって来た。
「社長、おはようございます」
気がつけば八時半を回っている。
「おはよう。今日は早いね」
ここしばらく一緒に出社していない。秘書の出社は始業時間で問題ないと思っているが、こんなに早い時間に出社しているとは思わなかった。
「早めに出社して、今日も定時で帰りますよ」
江上は口角をあげて笑った。
「それはいい心掛けだね。上がそれなら、我が社の秘書室の残業時間は劇的に減りそうだ」
そう反応して、二人でふっと笑った。
「で、昨日は何があったんですか」
江上の切り込み方は流石だ。なんの前振りもなく、何かあったことを前提にして直接的に問うてくる。
それには潤も想定済みで平常心で応じることができた。昨日颯真に癒してもらい、気持ちも落ち着いている。
「うん……。
昨日の日製協の総会の後、佐賀さんと会った」
さすがに想定外だったようで、江上の動きがぱたりと止まった。
「佐賀って……」
「うん。我が社の前取締役、佐賀安則氏だ」
江上の表情が歪んだ。息を呑み、そして唸るように呟いた。
「あいつ、どの面下げて……」
あまり江上からは聞いたことがない言葉に、潤が逆に嗜める。
「落ち着けって。大丈夫だから。
ただ、その件を含め、飯田さんと大西さんの四人で情報共有だけはしておきたい。少し懸念もあるし。今日、時間を作ってくれない?」
潤がそのように依頼すると、江上は厳しい表情で即頷いた。
「……承知しました。大西事業部長と副社長に連絡します」
江上が退室して、社長室はしんと静まり返る。
潤は吐息する。江上が、佐賀と会ったと話すだけであの反応だ。会社を裏切った人間という憤りに加え、あのクリスマスイブの、取締役会の前の事件が思い起こされて、一瞬で沸点を突破したのだろう。江上はあの現場に居合わせた一人だ。
自分だって昨日は混乱して精神的にいっぱいいっぱいだったのだから、あの反応は理解できる。
江上でさえそうなのだから、颯真なら殊更だったろう。
潤はチェアに腰掛けて、脚を組む。仕事に向かうには少し集中力が途絶えてしまった。冷えたロイヤルミルクティを口に含んでから、頬杖をついた。
今朝、同じベッドで寝ていた颯真と、起きてすぐに一緒に風呂に入った。気持ちを繋げてからは一緒に入浴することも多いが、今朝も一緒にシャワーを浴びて、互いの髪と身体を洗い合って、湯船に浸かった。
その中で、潤は颯真に昨日の出来事を話して聞かせたのだった。
湯船の中で、颯真の胸に背中を預けて、ぽつりぽつりと口を開く。
肌が密接しているのに、視線がかち合わないのが有り難かった。昨夜から大分気持ちも落ち着いたが、ダイニングテーブルで面と向かって話そうと言われたら、少し話しにくかったかもしれない。
総会が終わり、長谷川と別れた後に東邦製薬の大路に話しかけられたこと。
そして、その大路から紹介される形で出てきたのが、佐賀であったこと。
そして佐賀が潤に語ったこと。
特に、佐賀が語ってみせた、自分はオメガに単にグランスを投与しただけなのに、社会的な制裁という言われのない仕打ちを受け職を失った、これはむしろ被害者であるといった主張を話すと、颯真は黙り込んでしまった。
「頭から尻尾まで、自分勝手な主張だな。そいつの用事はなんだったんだ?」
「……オルムの事務局長に就任したという挨拶」
「はっ……」
颯真が吐き捨てた。
「オルムって、あの人種差別甚だしい団体だよな。乗っ取られたっていう……」
「うん……」
潤は頷いた。片桐の話を思い出す。
「仕事を失って、失意のなかでこの団体に辿り着き、救われた気分で通っているうちに、自分も支えたいと思うようになった、って話したそうだよ」
颯真が「勝手なことを言うな」と呟く。自業自得なのにねと潤も頷いた。
「でも、なんでそんなことを潤に……?」
「佐賀さんとしては、誇示したかったんだと思う。自分は返り咲いたっていう意味かなって。あとは宣戦布告」
おそらく森生メディカルとペア・ボンド療法に言及していたのは、そのような理由があったのだろうと潤は分析していた。
「……僕は相当、彼に恨まれているみたいだ」
その私怨が、会社やペア・ボンド療法を巻き込もうとしているのかもしれない。
潤がぽつりと呟くと、ぱちゃりと水音が浴室に響き、背後の颯真の腕の力がぐっと入ったのを感じた。抱き締められた。
背中に颯真の顔が密着していたが、しばらく無言だった。
「颯真……」
「大丈夫だ。俺がついてる」
潤がそっと腕に手を添えると、颯真は無言で項に唇を寄せた。強く吸われて、キスの跡が残った。
「悪い。俺の想像以上だった。本当に無事で良かった。片桐さんに感謝だ」
「ううん。僕も油断してたんだ」
そう弁解すると、通常であればセキュリティがしっかりしている場所にいたのだから、仕方がないだろうと慰めてくれた。
「うん……」
颯真の優しさに、潤も頷いた。
「でも気をつけて。会ったことはないけど、執念深そうな男だ。そういう男に粘着されると大変だ」
その指摘に潤もふっと笑った。
「うん。もちろん十分気をつける。でも、もしたとえグランスを打たれるようなことになったとしても、僕は一人じゃない。颯真がいるから、大丈夫」
潤は身を少し起こして、身体の向きを変える。背後にいた颯真と向き合う形になった。
颯真の顔を、湯から出した両手で包み込み、優しくキスをする。
「僕としては、東邦製薬やオルムの背後関係が見えてきたのはプラスだと思ってる。
彼らがどんな人間なのかを隠さなくなってきたけど、大丈夫、僕は負けない」
自然と強気な言葉が出てきて、それを胸の中で噛み締める。潤は、颯真を抱き寄せて決意と体温を伝えた。
「……うん」
颯真は頷いた。
しかし、それでも不安が拭えなかったのだろう。颯真はその後、いつも以上に潤が自分から離れることを嫌がったため、潤は十分遅刻した。
颯真を宥めてすかして身支度に手間取り、いつもの時間に降りてくることができなかったのだ。
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