178 / 225
(87)
四月半ばの横浜港は麗らかで暖かな陽気だった。清々しいほどの快晴で、陽射しを遮るものがなく、少し汗ばむくらい。
潤はシャツにジャケットという装いだったが少し暑いくらいだ。
この日、潤は尚紀と一緒に、横浜市のみなとみらいにある大さん橋を訪れた。
ここは、国内外の客船が寄港するターミナルで、横浜港の玄関口の一つ。正式名称は、横浜港大さん橋国際旅客船ターミナルという。港に迫り出すように作られた構造で、大型クルーズ船が二隻停泊できる。二十年ほど前に建て替えられた施設はターミナル港としての機能を持ちながら、海から横浜の街並みが見渡せる絶景スポットとして人気だ。
ターミナルの屋上はなだらかな勾配の展望デッキになっており、今日のような麗らかな日は、海はもちろん、街並みも青空に映えて素晴らしい光景を堪能できる。
今日は客船の停泊日ではないらしく、ターミナル内は閑散としているものの、展望デッキからはみなとみらいの街並みも横浜ベイブリッジも望むことができた。
潤はなぜここに連れてこられたのか、実はよく分かっていなかった。「横浜で会いたい」という尚紀の希望に合わせ、午前に潤は尚紀と中目黒駅前で落ち合い、タクシーに乗った。彼が希望する行き先としてここを指定され、たどり着いたのだった。
尚紀は車内でも言葉少ない様子だった。ふたりで後部座席に座りつつ、潤も無理に話しかけることはせず、そっとしておいた。尚紀と一緒にいて、沈黙が続いても気まずくないから不思議だ。
ただ、尚紀は何を考えているのか。少し俯いたまま。一時間弱の間、会話はほとんどなかった。
大さん橋の入り口でタクシーを降り、彼が潤を誘ったのが、屋上の展望デッキだった。天然芝と船の甲板をイメージしたウッドデッキ仕上げで、先端のベンチに腰掛けると、目の前は横浜ベイブリッジ、その奥には青い空。
「絶景だね」
潤がそう言うと、尚紀は柔らかい笑みを浮かべた。
そして沈黙。
何か躊躇うような気配は感じるのだけど。
「尚紀、ずっと海を見つめてるけど、何かあるの?」
そう切り出すと、尚紀が狼狽える。
「ごめんなさい。潤さんお忙しいのに、こんなことに付き合わせてしまって」
「気にしなくていいよ。今日は尚紀のために十分時間を空けてあるから」
そう優しく言ったが、尚紀はますます小さくなってしまった。
「ごめんなさい……」
どうもナーバスになっているみたいだ。自分の言い方が悪かったかなと潤は反省する。
「そんなことないよ。率先してスケジュールの調整をしたのは尚紀の番だしね。愛されてるよね」
そう、尚紀は愛されているのだ。
「僕は尚紀のためなら時間を割けるんだよ。大事な人だからね」
こちらが勝手にやったのだから気にしないで、と言い添えた。
「……ありがとうございます」
ようやくいつもの尚紀らしさが戻ってきた。
「実は、この間メトロポリタンテレビからインタビュー取材の依頼を受けました」
尚紀がそう切り出してきた。
「僕がペア・ボンド療法の被験者であるとわかってて申し込んできたみたいです」
潤は頷いた。江上から聞いている。彼は、尚紀はまだ返事をしていない様子だが、受けないということはないだろうと言っていた。
少し心配もあるが、そこは彼の意志を尊重しようと思っている。
「廉から話だけは聞いたよ」
「相手は潤さんの取材をした方だと。廉さんも信用のおける人だと言っていましたし……」
「そうだね。颯真とも仲が良い人だよ」
潤が頷いてそう言い添えると、尚紀は目を丸くした。
「信用できる方なんですね」
潤も頷いた。
「僕もその方の取材を受けようと思います」
言葉に迷いはなかった。確かに江上もそう言っていたし。
「その前に少し気持ちを整理したくて……」
そういって黙り込んでしまった。
「それで大さん橋なの?」
潤の質問に、尚紀は頷いた。
いまいち潤には話が見えてこないが、尚紀の出方を待つ。まずは話を聞く姿勢に徹しようと思うからだ。
「ここは僕にとって、忘れられない場所です」
尚紀はぽつりと言った。
「すいぶん前ですが、僕、潤さんに自分の過去を、正直忘れてしまいたいこともあるし、忘れちゃいけないこともあるって話したことがあります」
潤もすぐに思い当たる。それは二月の初め、尚紀の復帰作の撮影日。東麻布のレストランでオメガ同士の話と、尚紀と二人で内緒話をしたときのことだ。
潤は頷く。
「よく覚えてるよ。その時が来たら潤さんの助けを借りたいって言ってくれたもんね」
そう、颯真とのことで揺れ揺れだった自分を、尚紀は頼りにしてくれたと、とても嬉しく思ったのだ。あの時の話の続きか。
「取材を受けるとなると、これまでの話は避けて通れないと思っています。だけど、忘れたいことと、忘れてはいけないことが僕のなかでずっと鬩ぎ合ってて、一人で辿るのが怖くて。ちゃんと決着をつけないと、前に進めません」
潤はいつも尚紀の強さに驚かされる。
「尚紀はさ、いつも自分の前に置かれている困難をちゃんと分かってて、それを乗り越えようとする。僕は本当にそれがすごいと思うよ……」
もしそれが自分であったら。そんな辛いことは、まとめて蓋をして考えることを放棄するかもしれないと潤は思う。
それは僕が聞いてもいいことかな? と潤は問いかける。
尚紀は小さく頷いた。
「あの人を覚えているのは、もう僕だけなんです。あの人のことを僕が忘れたら、初めからなかった人になってしまう気がして……」
尚紀は俯いた。
ともだちにシェアしよう!