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 僕が忘れたら、初めからなかった人になってしまいそう、とは。尚紀は、一体誰のことを言っているのか。  今日の彼の言葉は謎かけのよう。自分の内面と対話をしているのだろうかと潤は思う。それを察するには、きっと自分の経験値が足りないような気がする。 「それは、尚紀の元番の人のこと?」  潤が問いかけると、尚紀は首を横に振った。 「いいえ、違うんです。僕と同じで、番だったオメガの人です」  尚紀の元番は複数のオメガを番にしていたと、かつて聞いて潤は衝撃を受けた覚えがある。 「尚紀は三人の番のうちの一人だったんだよね」  潤がそう確認すると、尚紀は頷いた。すでに番のアルファはいない。そうなると、尚紀以外の消息は、と疑問も湧くが……。 「今その人は……?」 「亡くなりました」  どこか潤は納得した。やはりそうなのかと思う。 「そうか。忘れたくない……って、尚紀にとって大事な人なんだね」  潤が寄り添う姿勢を見せる。尚紀がふっと視線を伏せた。 「温かくて寛容で……。とてもお世話になった人なんです」  その言葉に潤はわずかな違和感を覚える。しかし、それを言葉にできるほどのものではなくて。でも、なにか複雑な感情が孕んでいるような空気を感じる。  尚紀が、元番と番契約を結んでいたという数年間。一体どのように生きてきたのだろう。番と一緒に暮らしていたのか、それとも親元にいたのか。他のオメガとはどのような関係性を築いていたのか。  一人のアルファを複数のオメガで分け合う状態というのは、どうしたって想像がつかない。  そのせいか、気軽に聞いていいものか躊躇いも生まれていた。 「かなり年上だったこともあって、いつも心配してくれていました……」  その口ぶりからすると、その相手と尚紀とは悪い関係性ではないように思える。潤は少し安堵する。  挫けそうになったときも励ましてくれた人です、何年か一緒に住んでいましたと、尚紀が言った。 「一緒に? 四人で?」  普通はアルファと尚紀を含めた番のオメガ三人の計四人という計算になる。 「いえ、オメガばかり三人で。共同生活をしていました」  なるほど。すごい話だ。一人のアルファを分け合うオメガが三人で生活か。  潤が驚きを隠せないでいると、そこはアルファがいないほうが、うまくいくんです、と尚紀が笑った。 「たぶん、僕たちは番を失うまでは、それなりにうまくやっていたんだと思うんです……」 「そのオメガの方が亡くなったのは、やっぱり番のアルファの死が影響しているの?」  尚紀は頷く。  それは容易に想像できる。尚紀だって、かつてはアルファを失った影響を、その身体に残していた。 「ねえ、潤さん。横浜港って海洋散骨ができるんです。知ってました?」  話題の転換に、潤は目の前の海に視線を流す。  「散骨? お骨を海に撒いて弔う、あれ?」 「そうです」  尚紀は頷く。  この大さん橋から遊覧船をチャーターして行くんです。あ、ちゃんと業者さんがいるんですけど、あのベイブリッジの向こう側のポイントに行って、お骨を撒くんです。  尚紀の澱みない説明に、潤もそれは知らなかったな、と応じる。しかし、その話の流れでいくと……。 「……じゃあ、その人のお骨は、横浜港に?」 「ええ」 「尚紀が?」 「……そうです」  以前、尚紀は自分は人生の山も谷も見てきたと話したことがある。  番を亡くし、親しかったと思われる同じ番のオメガの死を受け止め、この横浜港に弔い散骨するなんて、キツすぎる。  しかし、潤はあえてそれには触れない。 「その人は、横浜港に眠っている、っていってもいいんだ。  今日はその人に会いたかったってことかな」  潤がそうまとめると、尚紀も頷き、そうなんだと思いますと言った。  メトロポリタンテレビの取材を受けるために、過去の出来事の気持ちを整理したいという尚紀の意図に、そのオメガが絡んでいるというのは、潤にもわかった。  潤の口からするりと言葉が出る。   「ね、その人との話を詳しく聞いていい? 尚紀を優しく見守ってくれた人なんでしょ。どんな人だったのか知りたいな」  すると尚紀が目を少し潤ませた様子で、笑顔をみせた。 「それを潤さんに話したかったんです。……先回りしないでください」 「ふふ。ごめんね」  潤から切り出したことで、尚紀は話しやすくなったのだろう。 「以前話しましたけど、僕は夏木というアルファの番でした。  彼には、ベータの正妻の女性と、僕を含めて三人のオメガの番がいました」  それだけ聞いても潤には衝撃だった。  本当に現代日本の話なのか。 「三人のオメガに正妻までいたの?」 「はい。奥様は本宅で暮らし、僕たちは夏木が用意したマンションで三人で共同生活をしていました。そのうちの一人が、横浜港に眠っているシュウさんです」  尚紀が「シュウさん」というその響きに、親しみと馴染みが感じられる。潤も「シュウさん」と口に出して繰り返した。 「本当の名前は『柊一さん』でした。彼は僕が番にされた時にはすでに夏木の番で。もしかしたら夏木が結婚するより前から番だったのかも……。そういうことを聞いたことはなかったです。何年も一緒に住んでいたのに、僕は彼の過去をよく知りません」  しかし、柊一は当時いきなり夏木によって番にされ、ショックを受ける尚紀を慰め、立ち直る力を与えてくれた人だという。 「心強い人だったんだね」 「でも、シュウさんは僕たちの中で一番夏木を愛していて……」  それゆえに、彼を亡くした時のショックも大きくて、それがその予後に大きく影響したのかもしれないと尚紀は言った。 「シュウさんは愛する人を亡くして、でもその影響を身体に残して、悲しんで苦しんで……逝きました」  僕は傍で見ているしかできなくて。  潤は唐突に納得できた。  以前、尚紀は番を亡くすことについて、「一度死ぬようなもの」と言ったことがある。それほどまでに耐え難い経験で、「死を選ばないのは、多分大した理由はなくて、たまたまだったりする」と話していた。  それはまさに尚紀自身が経験し、実際に見た話だったのだろう。 「見ている方も苦しかったね」  潤がそう言うと、尚紀は曖昧な感じで笑った。

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