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「取り乱してごめんなさい……」
尚紀が小さな声で謝ってきた。
少し落ち着いたかなと思う。背中をとんとんと優しく叩いて、慰めの気持ちを込めた。
「思い出はすべて事実でなければならないなんて僕は思わない。人の記憶なんて曖昧だからね。だから、尚紀はシュウさんと育んだ優しい時間を思い出にするほうが、シュウさんも喜んでくれるよ」
尚紀が忘れてしまったら、シュウさんも悲しむだろう? と付け加える。
尚紀は頷く。
「亡くなってからシュウさんのご家族には連絡を取ろうとしたのですが、分からなかったんです。夏木もすでにいないし、シュウさんの仕事関係も僕にはよく……。だから、彼を覚えているのは僕だけ」
まだ少し鼻声だが、しっかりした口調が戻ってきて、いつもの尚紀のように思えてきた。潤は安堵する。
「そうか……。じゃあ、僕も覚えておこう。弟の尚紀がとてもお世話になった人だ。今度はちゃんと命日にお花を持ってここに来ようね」
潤がそう言ってから、供える場所がないかと思った。
「僕もお会いしてみたかったな。きっと、包容力のある人なんだろうな」
潤の言葉に尚紀が頷いた。
「いつもニコニコしていて。穏やかで。お兄さんというか、引率の先生みたいでした」
「せんせい!」
潤が驚く。
「なんか、僕たちの共同生活は家族というより、合宿みたいな感じでした。
他人が一緒の住むのだから、お互いにオープンにしているところには触れるけど、さすがに最低限のプライベートは確保されていたので僕は不必要にそこに踏み込まないようにしていました」
潤は唐突に納得した。
尚紀のあの控えめで踏み込みすぎない、絶妙な距離感は、おそらくこの共同生活で得たものに違いない。
オメガ三人……、それも他人同士が三人で暮らすのだ。当然それぞれ生活環境も習慣も距離感も違う。その中で培った処世術だろう。
「僕がモデルとして外で仕事をするようになるまでは、家で勉強したり家事をしたり……そんな生活を送っていました」
尚紀は言った。
しばらくは外に出られなくて、この生活が僕の世界でした、と。
以前、高校を卒業できなかったといっていた尚紀だから、番にされたのは十代の頃だろう。家で勉強していたというところが、彼らしい真面目さを感じる。
「なるほど。だから、尚紀は料理が上手なんだね」
潤がそう合点すると、少し目を細めた。
「……そうですね。シュウさんはあまりそういうの得意ではなくて、一緒に暮らし始めてから、シュウさんが仕事をしているうちに僕は勉強をして家事をして。自然と役割分担ができて、料理も僕が作るようになって……」
尚紀の言葉に、潤の脳裏に会ったことはないシュウの姿と尚紀の共同生活が自然と浮かび上がる。
たしかに、合宿みたいだ。
家族ではなく、恋人でもない、友人でもない不思議な関係だけど、互いを思い遣ってとても近い。そんな絶妙な関係性での共同生活。辛いこともあっただろうが、楽しいことも多かっただろう。尚紀の顔をみるとそう思う。おそらく……想像だが、柊一がいろいろと気を遣ってくれたのだろうと思う。
いや。
……そんなふうに温かい関係性ばかりが脳裏に浮かぶのは、番のオメガ同士が同居するという現実を知らないせいではないかという指摘が脳裏を掠める。おそらく、自分の拙い想像などより遥かに苦労は多かったのだろうと潤は思い、わずかに気持ちが沈む。
潤は思わずため息を吐いた。
「僕は、自分が世間知らずで情けなくなるよ。一人暮らししようとしても颯真が押しかけてくるし、普通に部活の合宿も渋い顔されたし、他人と生活するなんて、そういう経験もないから、想像がつかないよ」
これは本音だ。
尚紀の過去を聞くにつけ、自分の浅い経験と拙い想像力では到底アドバイスなんてできっこない。経験値の差があまりにもありすぎる。
しかし、潤の嘆きに尚紀は楽しそうに笑みを浮かべた。
「ふふ。それは仕方がないです。諦めてください。
潤さんはもうずいぶん前から颯真先生にロックオンされてたって聞きました」
危険なことなんて絶対にさせてもらえませんよ、と話す尚紀の表情は少しずつ柔らかさを取り戻している。
「まあ、尚紀も颯真の味方だもんねえ」
「あ、ひどい。僕は潤さんの仲間だと思ってるのに!」
二人で顔を合わせて、ふふっと笑った。
尚紀が、少し俯いて潤さん、と呼びかけた。
「いつも潤さんは僕の話を聞いてくれて、自分は世間知らずって嘆きますけど、僕は潤さんの強さはそういうところではないと思っています。潤さんは、僕なんかよりずっと経験豊富で、メンタルも強いと思いますよ」
潤は驚く。尚紀にそんなことを言われると思わなかった。
「買い被りすぎじゃない?」
「僕のような経験は、できればしないほうがいいです。決して褒められるようなものでもないし、おすすめもできません。
でもね、潤さんは違う。若い時から大きな期待を背負って、プレッシャーに晒されてきたんだと思うんです。それに全て応えて、プレッシャーを乗り越えてきたから今があるんだと思います。それは、誰でもできることではないです。本当にすごいことですよ。
廉さんや颯真先生のサポートもあったかもしれないけど、潤さん自身に力がないと、とてもとても。いざという時の精神的な胆力は、僕なんかとは比べものにならないと思います。そういう点でとても尊敬しています」
潤さんは時々、自己肯定感がびっくりするくらい低くて心配になります、と尚紀は言った。
「潤さんを支えてくれる人はたくさんいると思うけど、立場や地位だけを見ているわけでもなくて、潤さんの人柄とか内なる強さとか、そういうものを、魅力に思ったり、好きだったり、尊敬していたりするからだと思います」
尚紀が潤が戸惑うくらいに評価してくれている。
「なんで、僕は尚紀にこんなに褒められてるのかな」
素直に疑問を口にすると、尚紀がぎゅっと潤を抱き寄せる。
「潤さんに、僕はすごく慰められましたけど、潤さんは時々見過ごせないくらい自分のことを粗雑な評価をするから……これだけは言っておかないとって。
僕はそんな潤さんに全力で励まされて、本当に幸せ者です」
「え、そういうオチなの」
すると尚紀はふふっと嬉しそうに笑った。
その笑顔に、今朝のような重さはあまり感じられない。
「潤さんに一緒に来てもらって良かったです。なんか前の番のことを廉さんに言うのも少し躊躇うし、多分シュウさんにとっても、僕の今の番という人よりも、潤さんに覚えてもらっていた方が嬉しいんじゃないかなって気がして……」
潤も頷いた。
「なるほどね。じゃあ前回のオメガ同士の内緒話の続きだ。
僕も尚紀とまた思い出を共有できて嬉しいよ」
「潤さん、どこかでランチしていきません? なんか落ち着いたらお腹空いてきました」きち
「いいね。そろそろお昼時だし、僕もお腹空いたな。そうだ、この下にカフェがあるんだ。多分もうやってると思う」
「見晴らしが良さそう」
「今日は天気もいいし、客船も停泊していないからいいと思うよ」
「潤さんは行ったことがあるんですか」
潤は苦笑した。
「うん。颯真と一緒にね」
すると、尚紀がベンチから立ち上がる。
そして潤に手を差し出した。潤もそれを取って、立ち上がる。
「ありがと。行こうか」
そう言うと、尚紀も嬉しそうな表情を見せる。
「颯真先生と潤さんのおすすめのお店! 楽しみです!」
「尚紀の僕らへの信頼感はすごいねえ。
そうだ、ランチしたら、ベイブリッジの方に行ってみようか」
そう潤が提案すると、尚紀もにっこり頷いた。
きょうはもう少し尚紀の思い出に付き合おうと潤は思ったのだった。
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