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「なんか、この車の助手席に座るの、久しぶりな気がする」  颯真の車の助手席に乗り込んで、潤はあえて弾んだような明るい声を上げると、運転席の颯真も柔らかく微笑んで「そうだな」と頷いた。 「いつぶりだっけ。  三月末かな。発情期が明けて和泉先生のところに行って、そのまま会社まで送ってもらったのが最後かも〜」  そう振り返りながらシートベルトを締めた。 「ああ、そんなに前か。休みが被らないと一緒に出かけないよな」 「休みが被ったとしても、あえて車で出かける場所もあまりないしね。スーパーは近いし、この辺りは美味しいゴハン屋さんも多いし」  徒歩ですべて済んじゃう、と潤が言うと颯真も同意した。 「この辺りは便利だよな。徒歩五分圏内に大体揃ってるもんな」    何気ない会話を積み重ねることで、少しずつ潤の中でも気持ちが浮上する。いつどんな場所でも、自分は颯真と一緒にいるだけで幸せな気分になれるのだと実感する。 「じゃあ、行くぞ」 「うん」  颯真がシートベルトを装着し、車を発車させた。車は、薄暗い地下駐車場から、土曜日午前の春麗らかな陽の下へ。  久しぶりのドライブなのだ。これはデートなのだと気づくと、潤の気持ちも自然とワクワクが湧いてきた。  潤は尚紀と一緒に出かけ、横浜の大さん橋で彼の重い過去を受け止めたのが月曜日。  週末に突入した土曜日の午前。二人は泊りがけで外出する予定で中目黒の自宅マンションを出た。  割と急に決まったことで、ことの発端はその数日前の夜。颯真がいきなり土日に泊まりで出かけようと言い出したのだ。 「僕はいいけど、颯真は仕事は?」  首をかしげる潤に、颯真は「休みを取ったから問題ない」と言った。颯真は土曜日も通常勤務が入ることが多い。  そんなに簡単に取れるものなの? と反応すると、これまで年末から年明けにかけて同僚医師の休みや夜勤を肩代わりしてきたことがあり、土曜日の出勤くらいなら変わってくれる同僚がいて、すでに話はついているという。 「俺は、割とわがままを聞いてもらえるんだ」  そう茶目っ気を出して言っていたが、それだけ日頃の貢献度が高いということなのだろう。  すでに颯真の中ではプランも決まっている様子で、それならば潤は何も異論はない。  彼があえて時間を割いて自分のためにどこかに連れて行ってくれるというのであれば、嬉しい以外の感情などない。 「どこに行くの?」  助手席の颯真にそう聞く。泊まりの準備だけしておいて、と言われただけで、行き先については聞いていなかった。 「川崎経由、目的地は奥鎌倉」  颯真の答えは明快。奥鎌倉といえば……。 「奥鎌倉って、瑤子さんの?」  潤の反応に、颯真は前方を見ながら頷いた。 「そう。瑤子さんのオーベルジュ、取れたんだ」     母茗子の親友である真木瑤子は、鎌倉を中心に県内でレストランやホテル、オーベルジュを展開する実業家だ。年が明けてから、潤は瑤子のレストランに母茗子や颯真と一緒に二度ほど足を運んでいる。  颯真と行った際、彼が瑤子に一度オーベルジュに泊まってみたいと話していたことを覚えている。おそらくその後瑤子と頻繁に連絡を取り、奇跡的に部屋を抑えることができたのだろう。 「キャンセル分を優先的に回してもらえたんだ。身内のコネだよな〜」  颯真がそう言った。  瑤子が経営する奥鎌倉のオーベルジュはフレンチが売りで、なかなか予約が取れないと聞く。ただ、粘り強くキャンセルを待てば抑えることもできるらしく、やはり颯真はあの時に瑤子に頼んでいたらしい。 「ちょっと早いけど、誕生日はあそこがいいなって思っててさ」  潤も合点した。双子の三十歳の誕生日は半月位以上先の五月十一日だが、今年はその十日後に横浜でアルファ・オメガ学会が控えており、二人ともその準備に追われ、誕生日を祝う暇などなさそうだと思っていた。少し前倒して特別な場所でバースデーを祝いたいということなのだろう。 「もう、そう言ってくれば。僕だってプレゼント用意したのに」  潤はむくれた。自分の誕生日は颯真の誕生日でもある。最愛の恋人の誕生日を祝う準備をさせてもらえなかったことに潤は不満の声を上げる。  逆にハンドルを握る颯真は、サプライズが成功させて、嬉しそうな表情を見せた。 「ははは。俺はお前がいてくれれば何もいらないよ。  その代わり、今夜は眠れないと思って覚悟しておいて」    右手でハンドルを操作しつつ、左手を潤の右手まで伸ばし、それを握る。ちらりと潤に熱い視線を流した。  颯真が泊まりがけのデートを決めたのは、予約が取れたことが大きいこともあるが、潤が少しナーバスになっていることを颯真が気づいたこともあるのだろうと潤は感じた。  気を遣わせてしまったと、わずかな後悔。  尚紀の辛い過去を受け止めてから数日、潤本人はいたって普通に生活しているつもりだったのだが、颯真にはしっかり見抜かれていた。尚紀の過去がやはり潤にとっても衝撃的で、少しナーバスになっていた。  あの日。尚紀と一緒に大さん橋に行き、展望デッキで彼の過去の話を聞いたあと、施設内にあるカフェに移動し、目玉焼きが乗った名物のハンバーガーを二人して頬張った。    尚紀は、ハンバーガーを頬張りながら、潤に当時の話をいろいろ話して聞かせた。  それは主に楽しかった思い出ばかりで、柊一らとのわいわいとした毎日の話を、潤は聞くことができた。サプライズで誕生日を祝うために、こっそりケーキを作った話や、毎週金曜日はカレーの日で、さまざまなカレー、果てはナンまで作った思い出、マンションの近くにあった小さな公園でバスケットボールをした思い出、そして柊一に勉強を教えてもらった話など。  潤は、尚紀の話を聞きながら、あえて楽しい思い出ばかりを誘導して引き出していった。  思い出を口に出して話すことで、記憶の定着が強化され、尚紀の中では楽しかった思い出として残りやすくなる。  それだけでなく、尚紀は納得したかったのだろうと潤は考えた。自分は最善を尽くしたと。  潤自身が話を聞いて、尚紀が逃げたり手を抜いていたりしたとは全く感じなかったし、むしろ真剣に、真摯に向き合ったと思う。そのように潤が感じた印象をそのまま、尚紀に思い出として定着させた方がいいと思った。    そんな尚紀との一日の出来事を、潤は颯真と江上に話すことはなかった。  江上は流石に気になりつつも尚紀本人に直接聞きにくかった様子で、潤は翌日秘書室長からランチに誘われ、会社近くの定食屋で前日の様子を聞かれた。  しかし、潤はいずれ時が来れば尚紀が話すと思う、とだけ伝えた。 「気持ちを整理するには時間が必要だから、それまで無理に聞き出したりしないほうがいい」  そうアドバイスをすると、江上もすべて納得したわけではないだろうが、尚紀の気持ちを尊重している様子で頷いた。静かに待つことにしたらしい。 「俺は番なのに、なんでお前が優先されるかな〜」  江上は砕けた口調でそうぼやいて、焼き魚定食を突っついていた。目の前で煮魚定食を食べる潤が笑って反論する。 「廉は、自分の番になんでも相談できる友人がいることを喜ぶべきだと僕は思うね」 「俺だけじゃ受け止めきれないこともあるのは事実で……、悔しいが正論だ」  番への独占欲を隠して、江上はそう言って嘆息したのだった。

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