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 それじゃあね、お休み、と手を振って瑤子とレストランで別れ、潤と颯真は上階の客室エリアに戻ってきた。  客室数もわずかのホテルであるためか、他の客と出会うこともなく、フロアも静か。絨毯張りの廊下をふたりで並んで歩いた。  客室に戻る足取りは、行く時よりなぜか軽くて、気分も高揚している。エレベーターを降りてから、部屋までの短い道のりの間、潤が颯真の手をとり、指を絡ませて歩き始めた。  潤のそんな行為に、颯真が優しく笑む。幸せだとしみじみ思う。  客室の鍵を開けて、扉を開く。颯真が促してくれて、潤が先に入った。  室内灯にスイッチを入れる前に、目に入ったのは窓からの景色。 「わ……」  おもわず、声が漏れるほどに幻想的であった。  白く縁取られた窓枠から見える緑の景色に目が釘付けになった。  新緑が下からライトアップされているのだろう。白い窓枠に萌える緑が映える。若葉に陰影がつき、その奥の濃い夜の景色とのコントラストが幽玄な雰囲気を漂わせる。  室内が暗いからこそ、外の風景が美しく浮かび上がる設計だ。 「すごい綺麗」  潤が思わず呟くと、続いて室内に入ってきた颯真が驚いたような声を上げた。 「すごい演出だな」  その感嘆に潤も頷く。  レストランの食事を終えて戻ってくると、こんな素敵な仕掛けが用意されているのかと二人でしばらく見惚れた。 「ホテルの人が考えたんだろうけど、インパクトあるね」  切り取りたいほどに美しく刹那的な風景だったので、しばらく室内灯は点けずにそのまま眺めることにした。  颯真が浴槽に湯を溜めている間、潤はベッドに横になり、窓から見えるその風景を堪能する。  こんなしかけをよく考えたなあと思う。  外は晴れていて、風も強くないため、まるで一枚の絵画を観ているようだ。  窓枠が額縁のようで、そのような錯覚を覚えるのだ。  身体をベッドに横たえて、眺めるとまたさっきとは違った角度から見えて興味深い。  そんな一人遊びをしていたら、その上に颯真が乗っかってきた。 「ずいぶん気に入ったんだな」  潤の視線が颯真に注がれる。上からのしかかられて、思った以上に近い場所に颯真の顔があった。  そのまま首元に顔を埋められる。  潤はそれを素直に受け入れた。ふわりと香る颯真のフェロモンに安堵する。 「うん……。あと、いろいろ考えてた」  潤がそう言うと、いろいろ? と颯真が問い返す。  潤が身を起こしたいと仕草で訴えると、颯真は潤の身を起こしつつ、自分の胸の中に潤を入れて抱き寄せた。  ここは、好き。  颯真の胸にもたれる。暖かくて安心できるところに落ち着いて一息吐く。  今日は颯真にべったりくっ付いてばかりいる。 「いろいろ何を考えていたんだ?」 「ん。瑤子さんに受け入れられてよかったな、とか」  颯真も頷く。 「あの人の器の大きさと、母さんの配慮のおかげだよな」  父さんと母さんの馴れ初めには驚いたけど、と付け加えられ、潤もそうだねと笑った。 「いつか機会をみて、直接話を聞いてみたいね」    まだきちんと番うことを諾としてくれてはいない両親だが、それでも優しさを感じる。  瑤子によると、両親だって本能の意味をわかっているのだから、二人の本気度だって軽く見ているわけではないのだ。 「鎌倉土産買って、帰りに実家に寄るか」  颯真の言葉に潤は頷いた。 「あのさ、瑤子さんと話してて、思ったことがあるんだ」  潤の言葉に颯真が興味深げに視線を向ける。 「なに?」 「瑤子さんは、母さんが森生メディカルに入社したのは、おじいちゃんに惚れられて、後継者と認められてと熱烈な様子があったみたいな感じだったけど、母さんの方から見ると違うのかもって。受け身というよりは、明確な目的があったんだろうなって思ったんだ」  潤の言葉に、颯真が興味深そうな表情を浮かべる。 「母さんは、オメガとわかって自分の意に沿わない……は言い過ぎかもしれないけど、自分が選んだわけではない人と番う約束を交わした。  今のように、オメガに対する理解も進んでいなかったし、早めに番った方が楽っていう親心もあった。それは、フェロモン抑制剤が今のように種類豊富ではなかったのも一因。  母さんが森生メディカルに入ったのは、そんな状況を変えたかったのかなって思ったんだ」  母茗子は、自分のように意に沿わぬ番契約ではなく、本能が求めるアルファに出会って欲しいと、オメガが強く生きていけるようにと願い、この分野に大きく舵を切っていた森生メディカルに入社したように思えた。  森生メディカルがアルファ・オメガ領域に大胆に舵転換を図ったのは、先々代、潤の祖父が社長であった時代。茗子に代が替わり、さらに加速した。  それは、アルファ・オメガ領域が急拡大していた時期と合致し、森生メディカルはその時流にうまく乗ったとも言える。  しかし、両親の馴れ初めを聞いて、森生メディカルが辿った軌跡は、単なる環境だけではなく、茗子の明確な信念があったように、潤には感じたのだった。  颯真も頷く。 「お前に言うのは釈迦に説法だけど、医薬品開発っていうのは一朝一夕にできるものではない。それこそ、莫大な開発費を使って、長い時間をかけて、多くの人々の協力があって、日の目をみるものだ。  じいさんの時代にその抑制剤の開発品がたくさんあったとしても、それが全てが形になるわけではないし、開拓されていない新しい分野を切り拓いていくには、強い信念が必要だ。  きっと母さんには、そんな情熱があったんだろうなと、俺も思う」 「……うん。なら、僕はどうなんだろうって、ちらりと思ってしまったんだよね」  潤は目を伏せた。  颯真が後を継がないがために自分に巡ってきた後継者というポジションに、相応しくなろうと必死で生きてきた。  決められたレールをただ、ひたすらに走ってきた。  森生メディカルに入るまでは、オメガだからといってアルファやベータに負けないよう、そして入社後は母の七光という陰口を跳ね飛ばし、自分自身の評価を確立したくてやってきたにすぎない。  すべて自分のためであって、誰かのためとか社会のためとか、立派な目標でもない。そんな自嘲が出てしまったのだ。  そんな卑屈な自分が出ると、颯真はいつも「なに自信を無くしてるのだ」と励ましてくれるのだが。  颯真はははっと声を上げ、あっけらかんと笑った。 「お前は、母さんの信念を受け継いで、しかもしっかり発展させてるだろ。自分がやってることをよく考えろ。  ……まあ、お前だけじゃなくて、俺もだけどな」  そう言われて、考えを巡らせ、潤はようやく思い当たる。 「あ、ペア・ボンド療法!」  颯真が、そういうこと、と頷いた。  ペア・ボンド療法自体が新たな価値を生み出す治療法だ。それはアルファとオメガ、ひいては社会への貢献に繋がる。自分が発端ではないが、自社製品を臨床試験に組み込むことでそれに関与できるのだ。 「ペア・ボンド療法だけじゃない。廉の話を聞いたり報道を見ても、今潤が一生懸命取り組んでいることは信念だと俺は思う」  なんで、社長なのに自己評価がそんなに低いんだ、過小評価は悪い癖だぞと颯真が笑った。 「う……ごめん」 「それらはいつか実を結ぶ。ちゃんとな。母さんのように」  そう予言して、颯真は額に優しいキスをした。

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