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 ゴールデンウイークを間近に控えた月曜日の午後。潤は、部下の藤堂や飯田、江上とともに東京千代田区の誠心医科大学病院の応接室にいた。  誠心医科大学、メルト製薬、森生メディカルの三者が共同で進める「DTCプロジェクト」のミーティングに出席するためだ。  DTCプロジェクトの「DTC」とは「ダイレクト・トゥ・コンシューマー」の略で、「疾患啓発活動」のこと。医療用医薬品の広告・宣伝は、法律で医療関係者などに限られており、一般には規制されている。そのため、製薬会社は一般向けの疾患の啓発活動をそのように呼ぶのだ。業界独特のマーケティング手法と言っていい。  DTCプロジェクトは、アルファ・オメガ領域で展開するメルト製薬と森生メディカルが、アルファやオメガの性差医療の情報を提供する共同広報プロジェクトだ。  ペア・ボンド療法を含め、この領域の今後の発展のためには、当事者だけでなくベータへの正しい情報提供が不可欠、というのは両社の共通認識。  そのため、製薬業界のマーケティングの専門家であるピーアールエージェンシーを加え、そこに事務局機能を置いて、継続的に検討を進めている。  その目下の課題が、来月五月の学会で発表予定のペア・ボンド療法の記者会見だ。  ペア・ボンド療法については、学会最終日に臨床試験結果が発表される予定だが、宣伝を待たず大きなニュースになりそうだと聞いているため、すぐに記者会見を開き情報を開示した方が良いという話になっていた。  そのため、DTCプロジェクトに誠心医科大学が加わり、急ピッチで準備が進められている。  両社のメディカルアフェアーズベンバーや広報部、そして秘書課が主で、誠心医科大学側からは本院のドクター、さらにエージェントで構成されているが、今日は両社の社長が参加しての打ち合わせだ。  通されたのは、ペア・ボンド療法のスタートアップミーティングの後に、和泉と長谷川の三人で会談を行ったあの応接室だった。  森生メディカル側からは、メディカルアフェアーズの藤堂と広報の香田、そして江上の三人、メルト製薬側もメディカルアフェアーズの担当者と広報部門担当者、さらに秘書室の風山が出席している。また、誠心医科大学側は和泉と、事務局のエージェンシー担当者の十人だった。  潤と長谷川の同席は、森生メディカルのメディカルアフェアーズの藤堂とメルト側の担当者、両者からの強い要望だという。  結構壮観だなと、潤は顔ぶれを見て思う。  参加者に資料が配られる。藤堂が配布しつつ、コンフィデンシャルでお願いしますと言い添えてきた。  それは、昨年末のペア・ボンド療法の治験結果のまとめだった。まだ未公表のデータだ。  来月の記者会見で配布する資料の叩き台だという。  ページを開くと、驚くべき内容が記載されていた。  潤は思わず、口に手を当てて資料に視線を滑らせる。 「……確かに、年末からの治験は全例で成功をおさめたとは聞いていたけど……」  ペア・ボンド療法は現在も本院と横浜病院の両院で治験が行われているが、今回のデータは、昨年の年末に誠心医科大学横浜病院で行われた一症例目から、年明けに本院で行われた六症例、そして横浜病院の三症例の、計十症例が報告されている。  それによると、全例で番契約が成立したのはもちろんのこと、三症例で番契約時による妊娠が認められたとのこと。症例数はまだまだ少ないが、現状三割の妊娠率は驚くほどに高い。   「数字が一人歩きしないように十分注意せねばなりません。言ってもまだ十例ですから」  その通りだ。現段階では驚異的だが、数を重ねていけば当然下がっていく数字だ。 「この結果は、事前のフェロモン治療を厳格に行えたからこそ出てきたものだと思っています」  和泉の言葉に参加者が無言で頷く。  すなわち、国内でもトップクラスの専門医が症例を厳選し、事前準備を万端にして行ったからこその数字なのだろう。 「このまま積み重ねていけば、ペア・ボンド療法の実施前に行うフェロモン治療の標準治療法も見えてくると考えています」  標準治療法を見い出すことで、全国どこでも同じ治療を行えるようになり、多くの人が恩恵に預かれるようになる。 「今回の記者会見は情報をコントロールしつつ、さらにもっと……当事者のオメガだけではなくアルファやベータの人たちにもペア・ボンド療法というものを広く知ってもらえたら、と思い企画しています」  そう言ったのは藤堂。彼の説明は記者会見の具体的な内容に移っていく。 「データの説明は、治験を中心的に進めて頂いた和泉先生か横浜病院の森生先生にお願いしたいと考えています。あとは質疑応答のために当社とメルトさんの開発担当の方にもお願いしたいのと、 ……あと、森生社長にも登壇をお願いしたいです」  藤堂のその言葉に潤は驚く。 「え。私、ですか……?」  会見の登壇者は、和泉や颯真といった医師陣に、当初からペア・ボンド療法を支えていたメルト製薬の開発担当者という、そうそうたる布陣だ。そこになぜ自分が、と潤は疑問に思い、藤堂を見返した。  森生メディカルはこの場に参加はしてはいるが、実際に今回の治験に参加していたわけではない。そのため潤自身、この会合にもオブザーバーのような立場だと思っていたのだが、いきなりこのような形で引っ張り出されるとは。 「社長、すみません。いきなり。でも、やっぱりここは社長かな、と思いまして」  藤堂は控えめながら、にっこりとファニーフェイスを見せる。周囲に配慮して、藤堂の言葉は多少は畏っているが、いきなりぶっ込んでくるあたりはいつもの感じ。  潤も、おまえなあ、と唸りたくなるのを堪える。飯田などは、いつものことなので隣でニヤニヤ笑っている。 「どういうこと?」  潤がそう藤堂に問うと、彼はその言葉を待っていたように頷いた。 「社長には締めていただきたいんです」  潤も頷いた。 「ああ、会見の締めの挨拶ってことかな。だったら、私よりも当初から治験に参加されていたメルトさん……長谷川社長の方が適任だと思うけど」  すると隣に座っていた長谷川が、首を横に振った。 「これは森生社長の方が適任だと、私が申し上げたんです」 「長谷川社長が?」  潤はますます解せない。

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