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天野家。
潤と颯真の実家から徒歩五分ほどにある。通りに面した天野医院の玄関とは反対側にある。
颯真は度々訪れるという話を聞いたことがあったが、潤はこれまであまり縁がなかった。なかったというより、あえて作らなかった。
颯真は久しぶりだと言いつつも、天野家を訪ね慣れているのは様子でわかる。潤は黙って、颯真の横に立った。
あらかじめ連絡をしていたので、天野は温かく迎えてくれた。颯真の隣に潤がいることに少し驚いた様子だったが、それでも、潤君も一緒とは思わなかった、よく来てくれたねと率直に喜んでくれた。
天野家のリビングには初めて通された。
妻の趣味という手作りのパッチワークに彩られたカントリー風のリビングは、人柄の温かさと同時に客をもてなす真心も感じる。
この時間、妻も息子も不在で、この家には今天野一人だけだという。
「大したもてなしもできないけど、ゆっくりしいていってね」
そう言われて、勧められたソファに腰掛ける。
温かくて優しい香りに包まれる。天野家には穏やかな時間が流れているのを潤は感じた。
天野がお茶を淹れてくれて、しばらくゆったりすると、颯真が口を開いた。
「両親と身内からの了承も得られ、潤とようやく番うことができそうです」
天野は表情を和らげて、優しげな目を細め、吐息を漏らした。そして一言。
「それはよかった」
そのシンプルな労いの言葉に、深い想いが込められていると、潤にも読み取れた。颯真も、素直に「はい」と答えた。
「天野先生、本当にありがとうございます」
「颯真くんの努力の結果だ。よく頑張った」
潤は、颯真の隣で二人の様子を眺めている。
自分が知らない颯真の人間関係。これまで見せてくれなかったそのようなものを、躊躇いなく晒してくれるのが潤は嬉しい。パートナーとして認められている。
いつか潤を番にする。兄弟であってもアルファとオメガの番であるという、颯真の信念に近い確信と決意を知っていたのは、おそらく江上とこの天野の二人だけ。
今こうして颯真の隣に、天野に相対して座っているが、ここまで至るまでの颯真を支えてくれた一人は間違いなく天野だろう。
ほとばしる感情、不安や焦り、そして不満。すべてを颯真本人も抱えきれなくなった時、江上や天野が受け止めてくれなければ颯真は耐えきれなかったかもしれない。そして、今の関係に至ることもなかったかもしれない。
そう思うと、これまでほとんど交流がなかった相手にもかかわらず、潤も深い感謝の気持ちを抱く。
天野と颯真は師弟関係といった雰囲気だ。
颯真は天野家に入ってからとても穏やかな表情を浮かべている。尊敬すべき師であるというのが、表情からも伝わってくる。颯真にとって天野は色々なことを話し合って、影響を受けてきた一人なのだろう。
「あの時、先生に潤を思う気持ちを『初恋』だと言ってもらわなければ、俺は潰れていたと思います。あの一言は、感謝してもきしれません」
その言葉には万感がこもっているように聞こえた。颯真は第二の性が判明する前から潤を番と定めていたが、兄弟の番関係はインセストタブーにあたるという世間の認識に潰されそうになっていた。そんな颯真に天野は、相手が実弟であることは知らなかったが「颯真くんにとって初恋だね」と喜んでくれて、救われたと話していた。潤にとっても印象的な話だった。
「それは……。まさか私も颯真くんが言う番候補が、潤くんのことだとは思わなかった。分かっていればもっと君の気持ちを汲んで軽くできるような言葉を選べたかもしれない」
颯真は首を横に振る。
「いえ。そこで気づかれたら、俺はもうここに来ることができなくなったと思うんです。普通の感覚では理解されないと分かっていたから、天野先生に軽蔑されたくなかった」
本当に颯真はギリギリのところを追い詰められてきたのだなと潤は感じる。
天野は嘆息した。
「安易な言葉で慰めたかなと思ったこともあったけど、ようやくそれで良かったと思うことできるよ」
颯真は言う。
「俺は、この時間があったから潤とも歩み寄れたのだと思います」
確かにそうだ。颯真が苦しんだ道を、潤もまた辿った。
「潤くん、これからは颯真くんのことを頼んだよ」
天野にそのように振られて、潤はまっすぐ見据えて頷いた。
「アルファは、その能力の高さから社会的にも優遇された性と言われている」
天野は潤に向かって話しかけていた。
「当然、将来的な社会貢献の期待も大きくて、制度上のさまざまな優遇策も取られている」
「はい」
「それゆえに、アルファはオメガ以上に第二の性に囚われていると私は思っている」
それは専門家らしい核心を突いた分析だと、潤は静かに頷いた。
「アルファが背負う期待は大きい。彼らは思春期でその性が分かると、一生その期待に付き纏われる。実際に優秀だから仕方がない」
日本人の数パーセントの確率で生まれてくる彼らには、大きなプレッシャーがかけられる。
正直なことを言えば、潤はそこまで深く考えたことはなかった。アルファに対する期待は大きいが、それに応えるだけの能力を持っているのもまた彼らだ。そんな期待などプレッシャーにさえならないとどこかで軽く思っていた。
「そんなアルファが、唯一心を許せるのは番の前だけだ。アルファにとって、オメガの番はそれほどまでに大きな存在なんだ。
もちろんオメガにとってもアルファの番の存在はそうだけど、オメガはアルファと違って、『番う』以外の人生の選択肢が増えたと思う」
潤は素直に頷く。
「……おっしゃる通りかもしれません」
オメガにとって、アルファと番うということは絶対ではなくなりつつある。
これだけ抑制剤が充実して、三ヶ月に一度の発情期だって、抑えようと思えば完璧に抑えることができる。人生において番を作らないという選択肢もあるし、ベータのカップルのように男女で法律上の婚姻関係を結ぶことだって可能だ。
オメガの目の前には、今さまざまな選択肢が提示されている。
「しかし、アルファはそうではない。大きなプレッシャーに晒される彼らにとって、番の存在は大きい。
本能が求める番を見つけられるか、番契約を結べるかが、アルファ自身の人生の質に大きく影響してくるんだ」
「番関係に依存している分、アルファは第二の性にオメガ以上に囚われている、ということですね」
潤がそういうと、その通り、と天野も満足げ。
「聡明な潤くんに、長々とこんなことを私が話すのも野暮なんだけど、だからこそ颯真くんを幸せにできるのは君だけなんだからね」
それは、自分でそう思っていても、天野に改めて言われると衝撃を受ける。
その通りだと、すとんと胸に落ちた。
「潤くん、颯真くんを頼んだね」
潤は深く頷く。
「天野先生、本当にこれまで颯真を支えてくださりありがとうございました。
……ここまでくるのに時間がかかってしまいましたが、これからはずっと颯真の隣にいる覚悟です」
潤、と颯真が囁いて手のひらを重ねてくれる。それが温かい。想われていることを実感する。
「落ち着くべきところに落ち着いた。私も安心したよ。ご両親も心配していたけど、ひと安心だね」
そう言われて、潤は颯真と天野を見る。昔はこの人と避けていたけれど、苦手意識は先入観だったなと、潤は改めて思った。
「また、力になれることがあったら言ってね。私だって君たちの味方だからね」
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