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 大型連休後の森生メディカルは、何事もなく、いつも通りに始動した。いや、大型連休後なので、わずかに慌ただしい。どの部署も、休暇中に発生したあれこれを片付けねばならないためだ。  社内はわずかに活気付いていた。  その日、朝に発売された「週刊東都」の記事の内容が共有されたのは、上層部を中心にしたごく一部のみ。良心的な記事とはいえず、また会社としては「無関係」を貫く以上、会社として意思を示すため、あえてそのような対応となった。広報部など外部対応が必要となる部署以外には共有をしなかった。  もしかしたら、得意先から問い合わせがはいるかもしれないが、それは各々対応してもらうこととした。 「まあ……なんというか、最大限に煽りたいという願望がダダ漏れのような記事ですなあ」  大西からそのようなメッセージが社内チャットで入り、潤は彼らしい感想にくすりと笑う。 「禁断の治療法に禁断の関係ですか。ペア・ボンド療法に絡めているあたり、本当にあの媒体はペア・ボンド療法憎し、なんですね」  こちらは飯田のコメント。  三人で構成された業務用のグループチャットはしばらくそのような話題で盛り上がった。普段は三人とも多忙なので、このような雑談はほどんどなく情報共有のみなのだが、さすがに今回は二人ともこの件で社内の反応や外部の反応を見極める必要があるのだろう、時間をとってアンテナを張っているようだ。  正午頃には、広報部がプレスリリースを打った。  タイトルは、「本日発売の週刊誌報道における当社の対応について」。 「本日発売の週刊誌「週刊東都」におきまして、弊社社長の森生潤の記事が掲載されておりますが、弊社といたしましては個人的な案件と判断し、詳細については関知しておりません」と、わずか数行の短いコメントを発表した。  簡潔なものにしたのは、これ以上突っ込まれることを避けるため。記事内容の真偽も入れていない。  これは報道各社にメールをするとともに、自社サイトと社内のイントラにも掲載された。  そして昼休みを挟んで、今度は潤の名前で社内に一斉メールを送信した。  タイトルは、「本日発売の週刊誌、週刊東都の報道について」  江上が考案した文案をそのまま潤が承認し、社外秘の社長メッセージとして、秘書室長の名前で代理送信された。 「本日発売の週刊誌にて、私個人について報道がありました。内容は一部を除き事実ではありますが、ごくプライベートな問題であるため、社外的なコメントは控えています」  そのように事情を説明。さらに、この件において会社への経営には一切影響を及ぼすことはないので、各自落ち着いて日常業務にあたって欲しいと伝えた。 「この件で、我が社の事業が妨害されることはありません」  また、この件に関して得意先から説明を求められた場合、「個人的な問題であり、業務に影響はない」ことを伝え、難しい質問を受けた場合は上長と相談することも言い添えた。  会社としてはプライベートとして穏便に終わらせたい。  これが現状できることのすべてだった。  午後の業務が始まり、件の全社メールが送付されてしばらくして。社内の空気が少しずつ変わってきているような感覚を覚えた。  いや、潤自身は上層階の幹部の執務エリアから出ていないので、この場所でのわずかな空気の変化なのかもしれない。  きっかけは飯田からのチャット連絡。彼は階下の管理部門にもデスクがある。 「結構ざわついていますねえ」  何の件を言っているのかは明確で、飯田からこのような雑談が入ることは少なく、よほどの空気の変化なのかもと潤は感じた。  続いて広報部長の香田からも報告が入る。  広報部内では記事内容の事前共有があったため、プレスリリース及び社長の社内メッセージでも動揺することはなかったらしい。部内では、会社としてこの報道をどのように扱うのかは事前に聞いているし、内容を見れば騒げる類のものではないことは明白で、落ち着いているとのこと。  外部からの問い合わせは数件入っていて、専門誌というよりは一般誌からだという。記事の真偽について探りを入れるようなものがいくつか。  広報部では、内容についての真偽は一切答えず、個人のプライベートであるため関知しないという姿勢を貫いている。  潤が当初想像したよりも、静かに、穏便な空気で状況は進んでいる様子だった。  とはいえ、自分の記事を中心にしたそのような対応の報告を受けていると、やはり気疲れする。朝から緊張していることもあって、気分転換に社内のカフェにいくことにした。  あまり人気がないといいなあと思うが、まだ業務時間内であるし、実際に人はそんなに多くはないと思う。  江上にチャットで声をかけて、社長室を出る。このフロアを歩くだけで少し緊張するが、すれ違う部下には挙動に異変はない。  ……そんなことをいちいち考えているから疲れるのだろうが。  本社の二階にあるカフェは、ちょうど人が途切れたタイミングのようで、潤は少しホッとしてロイヤルミルクティをテイクアウトした。  もっぱらロイヤルミルクティは朝にテイクアウトしてしまうため、この店はあまり利用しないのだが、カフェの店員には当然社長というのはバレていて、「社長、お疲れ様です」とにっこり笑ってカップを渡される。 「ありがとう。お疲れ様です」  潤もほっこりしてそう答える。  二階まで降りて、またすぐに戻る気にはなれず、しかし他のフロアを散歩する勇気もないので、潤はそのまま近くのベンチに座り、少し休憩することにした。  ぼんやりとカフェテリアの風景を眺めつつ考える。江上から送信されたメールを見た社員は、何事だと思うだろう。  自分だったら、おそらく件の記事内容にまず当たる。得意先、取引先からの問い合わせに素早く反応するためだ。おそらく社員の多くがそのような対応をするだろう。  不意に蘇ったのは、先月同期会で会った、酒を酌み交わした同期の面々。  そして霧島、樋口、春日、藤堂。  藤堂は祝福してくれたが……他の三人はどう思うだろうか。彼らの反応で意志や想いが変わるわけではないが、それでも気にはなる。    祝福してくれる者は……難しいかもしれないが、戸惑う者、許容する者、同情する者、嫌悪感を覚える者、軽蔑する者、そして無感情な者……彼らはどのような感情を抱くのだろうか。 「この関係をまず許容できるか否か、だと思う。そこは否定しません」  不意に、皐月会であのアルファの男たちに言い放った一言が蘇る。 「多くからは拒絶されるかもしれない。それを僕たちは甘んじて受け止める」  そう言ったな、と潤はしみじみ思う。だから、祝福してくれる人、許容してくれる人を大切にしたい。  自分の隣にはいつも颯真がいるのだから、大丈夫。そして指輪に触れる。  潤は自分の立ち位置を、再確認した気がした。  ふとスーツのポケットのスマホが揺れているのに気がつく。  見ると社内チャットのメッセージ。送信元は藤堂。 「社長、どちらにいらっしゃいます?」  どうやら居場所を探されているようだった。

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