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「今日はさすがにお疲れだと思うので、早めに上がってください」  夕刻近く、江上にそのように勧められて、潤も素直に従った。ずっしりとした疲れが身体に張り付いている感じがしていた。  それに、終業時間までいると、なにかと面倒でもありそうで。定時前に、ひと足早く潤は社用車で帰宅した。  早めに上がったので買い物でもするか、などという気持ちはなぜか全く浮かばず、車内でもぼんやりと車窓を眺めていた。  先ほどの秘書の言葉が蘇る。 「明日は営業会議もありますし、このまま騒ぎが収束しなければ、取引先やメインバンクへの説明は必要になりますから」  そうだよな、と思う。さすがに、江上は先のことを考えていた。  今日一日でこんなに気疲れしてしまっていれば、この先が思いやられる。  しっかりせねば、と潤は自分を励ます。  憂鬱だが、きちんと先のことも考えておかねばならない。耳が痛いと塞ぐわけにはいかないのだから。  万が一、騒ぎが長引き、万が一飛び火した時などは静観する時期を過ぎたとみるべきだし、そのタイミングは絶対に逸することはできない。  情報は生き物なのだから、何が跳ねるのかわからない。江上はおそらく最悪のところまで想定している。それはとても頼りになる。だけど、その「最悪」がどういう状態なのか、潤もぼんやり想像できても、今は具体的に考えたくなかった。  疲れもあって憂鬱な気分が続く。 「はあ」  吐息が漏れた。  世界が変わったというのはこういうことなのだろう。昨日までとは違う世界に今置かれている感じがしている。  これまでは自分のことなど知らない人が大多数であったはずなのに、雑誌に極プライベートな情報が三ページ載ってしまったことで、いろいろな人が自分のことを知っているのではないかという、ある種の錯覚に陥ってしまっている気がする。  一般誌としても、発行部数とて大したことではない。その中でも、この記事を読んでいる人はさらに少なくなるはず……。なのに、世界に無防備にされされたような心細さがどうしても拭えない。  世間の好奇心に晒されるというのはこういうことだろう。有名人……尚紀などは常にそのようなことを意識しているのだろうと思う。彼の苦労に比べれば大したことはないと思うが。マスコミに書かれた影響というのは、こういうところに出るのだろうと思う。  はあ、メリットが何もないじゃないか……。  うんざりしたところで、社用車はマンションのエントランスに滑り込んだ。 「お疲れ様。ありがとうね」  潤はドライバーにそう声をかけて車を降りた。  余裕を持っていたのはそこままで。  早足でエントランスを抜けてエレベーターに乗り込む。フロアに到着しても、足早に自宅の扉を開けて身体を室内に滑り込ませて施錠して、潤は吐息を漏らした。 「はあ……」  ようやく安心できるテリトリーに帰ってきたという安堵感。  このまま玄関先に座り込みたい気分だが、そうもいかない。  とりあえず着替えて……お風呂の準備をしようと思う。まだ夜も浅いので、颯真が帰ってくるには早いだろうけど……今日はそこまで遅くはならない気がするし。  そう考えて、浴室をきれいにして浴槽に湯を溜めた。颯真を待ちたいと思ったが、早く外の汚れを流したいという気持ちが勝り、また身体を温めて気持ちを捌けば少し落ち着いてくるに違いないとも思ったので、先に風呂に入ることにした。    予想通り、浴槽に入り身体を温めると気持ちもほぐれる。首までしっかり温まり、浴槽に後頭部を乗せて、天井を見上げる。  みたびの大きな吐息。  ……それでも少しだけ、大丈夫という気持ちが湧いてきて、潤は元気をもらったような気になった。  茗子にも理解してもらっているし、社内にも理解者はいる。藤堂に「大丈夫」と言われたが、あの言葉は経験上とても頼りになることを自分は知っている。だから「知ってる」と答えたのだ。  外野がいくら騒いでも揺るがないものは多い。  そして自分には颯真がいる。  たとえ全てを失ったとしても、颯真がいてくれるだけで、幸せなのだから。  そう考えると、気持ちも落ち着いてくる。  うん大丈夫、と頷いて、潤は浴槽を出た。  髪を乾かして、キッチンでロイヤルミルクティを作っていると、颯真から連絡が入った。  今日はもう上がるとのメッセージ。  まだ午後七時だ。驚くほどに早い。  夕飯どうした? という連絡が来たので、そのまま自宅で食べると伝える。今日は外で食べるより、何かを買って帰るより、颯真が作ってくれたものが食べたい気分だ。手早く夕食のメニューの相談をする。   この部屋で一緒に住むようになり、颯真の家事能力が格段に上がった。冷凍庫は、颯真が作り置きをしている自家製冷凍食品が詰まっている。  彼の料理好きは結構な筋金入りで、時間が空いたり休みの日などに作り置きを作ってくれている。朝食などは、冷凍パンに加え、スープなども自家製で冷凍処理されており、温めれば朝食が完成する形。もちろん夕食も栄養バランスが整う一汁三菜で揃うようにメニューが考えられており、その一式を指示にしたがって解凍するだけだ。  潤には颯真のようなことはできないが、彼の指示に従って温めるくらいはできる。帰るまでに温めておくよ、と伝えると、颯真からはスタンプが返ってきた。  まさに颯真が作って冷凍しておいてくれた温野菜とハンバーグを温め、フリーズドライの即席スープとご飯とともに食卓に載せる。二十分もかからない。颯真の家事能力は本当にすごい。  すると、それからすぐに颯真が帰宅した。 「おつかれ!」  あえて元気に出迎えると、颯真は少しびっくりしたような顔をして、無言で玄関で潤をハグした。 「ただいま」  その言葉は少し気だるげで……。だけど安堵感を伴っていて。  やはり、彼でも今日はしんどかったのだろうと思うに十分だった。 「おかえり」  潤は、彼の背中に手を回して、優しく撫でる。  準備万端で颯真を出迎えられて良かったと、潤は思った。
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