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その夜、颯真は帰宅しなかった。
今夜は帰るのが難しいと連絡が入ったのだ。明日の夜は夜勤と聞いていたが、今夜は今夜で目が離せない患者さんがいるとのこと。
これまで頻繁ではないものの、なくはなかったことだ。今回の騒動が影響して帰れない訳ではないとわかって、少し安堵する。
今日は心にわずかな隙間風が吹いたが、それを多忙な颯真に訴えることはしたくない。
「僕は大丈夫。仕事に集中して」
スマホの向こう側で心配そうな颯真に、潤は笑ってそう言った。彼も多忙ながらSNSの動きを見ている様子だが、それに関しては触れてこない。ただ潤のことを気遣うばかり。颯真は強いな、と思う。
「僕も無理はしていないから」
颯真を安心させる言葉を選ぶ。これは本音だ。当然自分の感情は自分で捌くべき。今彼は日常診療のほかに学会の準備も抱えている。この件を抜きにして考えても、多忙なはずなのだ。相手のことを気遣える対等な関係でいたい。
本音としては今日の出来事を共有しておきたい気持ちもあったが、それは帰ってきてからでも良い。明日明後日あたりで収束すれば、「こんなことがあったんだよ」と後日談として話すこともできる。なにより今心配をかけたくない。
「明後日には帰る。それまで一人で無理するなよ。なんなら廉を頼って。俺が近くにいてやれないのが歯痒い」
そう言われたが、潤は大丈夫と言った。
「颯真は自分の仕事を頑張って。こちらは廉も気遣ってくれるし、問題ないよ」
颯真はそれでも心配な様子で、廉にも連絡しておくと言って通話を終了させた。
今回の件に関して、その後の誠心医科大学の様子を聞けなかったが、颯真があまり触れないことや多忙であることを考えると、あまり騒ぎにはなっていないのかもしれない。アルファ・オメガ学会は二週間後だ。みなとみらいの国際会議場やホテルを会場にした規模も大きなものだ。学会発表も控えて準備も佳境だろう。
今回の学会はアルファにとってもオメガにとってもターニングポイントとして重要なものになるに違いない。絶対に成功させなければと潤も思う。
だから今は、静かに颯真の帰りを待とうと思う。
とはいえ、そのように考えても寂しさは拭えなくて。潤は颯真の匂いと温もりを求めて、一人で颯真のベッドに入る。
彼が使う枕を抱いて、存在を少しだけ身近に感じて躊躇いながらもパジャマも下着も脱いでしまう。全裸で彼の毛布に包まり、気持ちも落ち着き、ようやく睡魔がやってきたのだった。
「この兄弟が関わる治験なんて、健全とは思えないよ。だって、社会的に受け入れられてない関係性でしょう?そんな人たちに治療の最前線を任せてる今の医療界は、正直どうかしてる。#倫理観崩壊#誰か止めて#患者がかわいそう」
「アルファとオメガは番うものっていうけど、血縁の双子が“そういう関係”になるって聞いて、さすがに引いてる。医療に関わる者としての倫理観は問われないのか?#番とは#倫理崩壊#これは医療の問題では」
SNS上は禁断の番である双子の関係性を罵る言葉や直接的に攻撃する言葉が溢れ、トレンドを作っていた。制限などされないし、刺激的なハッシュタグによって投稿する傍から閲覧されていいねが付けられた。そんなSNS上の「祭り」を、翌朝も潤は静かに眺めた。
気になるのは、自分たちへの誹謗中傷のみならず、少しずつ医療や治験など、さまざまなところに飛び火し始めていること。
だけど、今の自分にできることは静観であると、昨日香田と話したばかりだ。もともとSNSに頼る生活をしているわけではないので、この祭りの収束方法は考えもつかない。
ネットの言葉は容赦がない。
人の本性が垣間見える。匿名要素が強いため本性以上に残酷になれるのだろう。
香田によると、こういう意見を「消そうとする」と「増える」ものらしい。難しい。
「ネットはヒステリックな炎上が続いていますね。森生社長、大丈夫ですか」
その翌日の朝。いつものように仕事を始めた時刻にプライベートのスマホにかかってきた電話は、メルト製薬の社長である長谷川からのものだった。
「長谷川社長……おはようございます」
「お疲れのようですね」
颯真のベッドで休んだにも関わらず、あまり眠れなかったことを挨拶だけで見抜かれてしまった。
「お騒がせして申し訳ありません」
「仕方がありません。それにこの状況でしっかり休めというほうが到底無理ですし、早く収束するといいですね」
見舞いのような軽い言葉を長谷川がかけてくれた。それに少し救われて、潤は重いため息を吐き出せた。
「ネットに目をつけられるとなかなか収束も難しく……怖いものですね」
私もあまり馴染みがないので、その拡散力に驚きました、と潤はぼやく。
「わかります。しかし、あれは集団心理です。個々の責任感が薄れ、他人を傷つけることへの罪悪感が軽くなるためでしょう。あの炎上に参加している人すべてが、同じようなことを考えているわけではないと思います。煽る者と便乗している者が存在していて、ほとんどが便乗している者です」
とはいえ、それが許されるかというと違いますがね、と長谷川。
冷静で客観的な視点に、潤も救われる思いで頷いた。
「いわゆる祭り、なのだと思います。こちらは持久戦かもしれません」
長谷川は少し危機感を募らせている様子を見せる。
「こちらとしては早く収束してほしいと思っていますよ。森生社長お気付きですか」
長谷川の問いかけに、潤は素直になんでしょうかと問い返す。
「火事は広がっています」
思い当たることがあり、なるほど、と言いたいことは理解できた。
「飛び火していますよね。そういう意味では早めに鎮火させたい。どう転がるかわからない」
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