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 火事が広がりを見せている、と長谷川が表現した件は、潤にも心当たりがあった。  双子の個人的な恋愛スキャンダルから議論が広がりをみせており、颯真が医療関係者であることから、ペア・ボンド療法をはじめとした治験への信頼性……ひいては医療の倫理観にも批判が及び始めていた。長谷川が言う「煽る者」がいるためかもしれない。  医療が抱える問題と認識させて、それを大きく炎上させたいという、何者かの思惑を感じる。「患者が可哀想」といった感情を全面に出した投稿の中に、そんな意図が潜んでいる気がしてならない。  それらの投稿者の多くがおそらくベータで、アルファやオメガといった当事者ではなさそうなところが、また興味深いところだった。もちろん、投稿者の第二の性などこちらには把握のしようもないが、どこか他人事のような表現ぶりに違和感が残るのだ。    また、頭が痛いことに、批判先の拡大と飛び火は、確実に潤の身の回りにも及び始めているような気がしていた。  昨日のエレベーターの中で、女性社員の反応に違和感を持ったのもそうだったが、今朝は出社前のカフェでもそれを感じた。  いつものようにロイヤルミルクティとサンドイッチをテイクアウトしたが、いつもは常連客として親しみを込めて対応してくれる、アルバイトの鳴海の反応が、少しよそよそしい様子だったような気がしたのだ。  昨日の朝は感じなかったが、今日はさりげなく目を逸らされた気もしたし、なんならいつもは楽しげに雑談をするのに、今日に限っては無言で、気まずい雰囲気が流れていたようにも思う。  彼もあの記事とS N Sの投稿を見たのかもしれない。載っていたのが、バイト先の常連の会社社長だと思い当たってしまえば……。  そう考えが至るとこちらから話しかける勇気もなく、重苦しい雰囲気のなか、彼はロイヤルミルクティを淹れてくれて、いってらっしゃいませと送り出してくれたのだった。 「“禁断の治験で救われた人がいる”って言うけどさ、本当にいるの? 兄弟のスキャンダルを揉み消すために、成功例だけを誇張してるだけじゃないの?#美談の裏側#真実を隠すな#患者は数字じゃない」 「治験で救われた人って、どんな人なんだろう?ここまで騒がれたら普通はでてくるもんじゃないの。それがないってことは…そういうことでは?#この治験大丈夫?#闇を感じる#なぜ報道されないのか」  潤はため息をついてスマホを閉じた。  副社長の飯田がやってきたためだ。 「そうですか、長谷川社長がそのようなことを」  午後になり、ミーティングのために社長室にやってきた飯田に今朝の話を伝えると、ため息を吐いた。  なかなか収まらない過熱したSNSの状況に、飯田も香田も困惑していた。 「正直、社長とお兄様の記事が出たところまでは、あまり広がらずに熱は引くと踏んでいたのですが、思わぬ方向に飛び火していますね……」  潤も頷いた。 「倫理的な批判から感情に訴えたようなものまでいろいろありますが、トピックに変化が見えるように思います」 「わかります。ペア・ボンド療法ですね」  二人で目を合わせ、頷いてから唸った。   「社長。思うのですが、もともと『週刊東都』は東都新聞社系の媒体なので、思想としてはオルムに近い。……というか、完全にあちら側ですね。この流れは仕組まれたものなのでは?」  飯田がそのようなことを言い出した。  一月半ばに潤のところに東都新聞社の記者、西宮がインタビューに来たことを発端として、この騒動は始まった。そこからフェロモン誘発剤「サーリオン」と中和剤「ゾルフ」をめぐる理解しがたい報道や、オメガの人たちへの無配慮な連載記事、そしてオルムの主張。そして極め付けが、週刊誌による双子のスキャンダルをきっかけにしたネットの炎上。  流れとしては鮮やかである。 「そこまで計画的ということですか」 「わかりません。そこまで考えているのかは。ただ、もしかしたらこの騒動の行きつく先はペア・ボンド療法なのかもしれません」 「ターゲットは、ペア・ボンド療法」  潤は、言葉を失ったが、……そのように考えれば、少し思い当たる部分もあった。  アルファ・オメガ学会は二週間後に開催予定で、そこでペア・ボンド療法の治験結果が公表される予定だ。そして論文化され、権威のある信頼されたジャーナル誌に掲載されることまで決まっているのだから、落とすには今がチャンス。 「世論が沸騰して批判が高まればもうけものですか……」 「そういうことでしょう」  新薬や新しい治療法は、果てしもない数の化合物候補のなかから薬の種や治療法を見つけ出し、さらに年単位の長い時間、億単位の研究開発費を投じて、多くの開発者の努力と多くの患者や医療関係者の協力を得て、ようやく陽の目を見るものだ。  それを自分たちのスキャンダルをきっかけに批判されてはたまらないし、許せるはずもない。  どうにかならないか。  潤と飯田は唸った。  しかし、潤と飯田の懸念は少しずつ現実のものとなりつつあった。  その翌日である土曜日。潤は、茗子に大手町の森生ホールディングス本社に呼び出されたのだった。

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