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週が明けて、新しい一週間がまた始まった。
この日、潤は数年ぶりに一般社員と就業時間を合わせて出社した。
ルーティンを続けていては見えてこないこともあると考えたのだ。
江上は心配したが、社員が往来する中を歩くことで読み取れる空気もあろう。
朝九時すぎ。この時間はいつも社長室で仕事をしているが、始業前のエントランスに潤も紛れてみる。すると、潤の存在が周囲に認識されたのか、ホール内の空気が少し変わった。
潤は気が付かないふりをしたが、何かを話すヒソヒソ声が耳に触れる。自分のことではないとは思いたいが、少しいたたまれない……。
考えがネガティブな方向に傾きつつあるのを潤は自覚していた。この場に来たことを少し後悔し始めたとき……。
「あ、社長だ。おはようございます〜! この時間にいらっしゃるの珍しいですね」
軽やかな挨拶が、潤の背後からした。
振り向くと、同期で人事部の才女の樋口沙耶香がいた。今朝は、黒のワイドパンツに格子柄のショート丈のジャケット姿で、清々しく格好いい。それに釣られ、潤も少し背筋を伸ばした。
そして安堵の吐息と共に一言。
「樋口さん。おはよう」
樋口は何も言わずに潤の隣に並んで立つ。彼女も注目されないかと懸念したが、気にしていない様子。
そして彼女は潤に向かって晴れやかな笑みを見せて、しっかりした口調ながら囁いた。
「大丈夫。社長には私たちが付いています」
そんなに不安な表情を浮かべていたのかと思うと同時に、同期からの力強い言葉に救われる気持ちになる。
潤の顔にも自然と笑みが漏れた。
「ありがとう」
樋口は今度は口許に手を添えて含み笑いを浮かべる。
「ふふ。社長の隣なんて嬉しい。今日は江上君がいないから私の役得です」
樋口は終始笑顔で、爽やかだった。
週末のSNS界隈を賑わせた特ダネ、森生メディカル内部の不和情報は、有能な秘書、江上廉の調査によって流言であることが、週明け早々に明らかになった。
有能な秘書は、潤が指示を出した土曜日の午後から一日半かけて調査を行った結果、月曜日の朝にそのような報告を上げてきた。
彼によれば、完全なる捏造というわけではないようで、四月に行われた組織改正に関連し、研究開発拠点である相模原研究所のスタッフたちによる拒絶反応がそれに近いケースであると調査では結論づけられていた。
あれは、直接的な反応としては組織改正に対する拒絶反応だったが、その背後にはどうやら根も葉もない噂が隠れていたことを、藤堂が教えてくれた。
「佐賀管理部長が辞めたのは社長の逆鱗に触れたから……」
昨年末の取締役会での劇的な解任劇がどういうわけか相模原研究所に歪んだ形で情報として伝わっていて、それにスタッフが乗せられたようだった。
あの更迭人事は、事情が事情だけに最低限の情報しか開示していないことが裏目に出た噂だった。
その情報元を藤堂に探らせると同時に、研究開発を担う大西と磯貝には十分なフォローをしてもらっていた。
その後、相模原研究所からあのようなことは起こらなかったし、藤堂からは噂の出所も有耶無耶になってしまったので、そこで調査を打ち切っていた。
こちらとしては完全に終わった話であった。
正直なところ、流言が広まればビジネスへの影響も懸念される案件だ。単なる誤解なのか、それとも故意か。
やるせない気持ちが増すばかりだ。
江上の調査結果をもとに、飯田と顧問弁護士が連携し、法務部も絡めて迅速な対応が検討され、まずは香田を通じて穏便に担当記者に該当ポストの削除を依頼することにした。
先方からは該当アカウントが個人の見解に基づいたもので所属の意図はないことを理由に、当初は削除を拒否されたという。
しかし、香田はそれでは済まないと食い下がった。当社では社内での調査をきっちり行い、その記事に該当するような事実は確認されなかったこと、さらに過去のことをあたかも現在の出来事のように記載している時点で流言であることは疑いなく、本来であれば内容証明郵便にて事の真偽を問うてもいい中、穏便に済ませたいと意図してこのように削除の依頼を出している、と根気強く、迫るように説得した。
香田の話は、誇張ではなく事実だった。この交渉が失敗すれば会社としては抗そ議文と内容証明郵便を出さざるを得なくなり、そのようなものを個人であれ編集部であれ、『週刊東都』に送り付ければ、火に油を注ぐことは明白だったため、可能であれば穏便に片づけたかったのだ。
森生メディカルの本音は早く収束させたいの一点に尽きる。企業イメージはもちろんのこと、社長の禁断の関係についてはSNSを中心としたネット上で一刻も早く廃れてほしいと息を潜めているためだ。今、内容証明を送付するようなことになれば、火に油を注ぐ結果になりかねず、できれば避けたい。
始業時間となりしばらくして、件のアカウントから投稿を削除したとの連絡が入ったということで、一同が胸をなでおろし、それは香田を通じて潤にも伝えられた。
それはよかった、と潤も安堵した。しかし、それは長くは続かなかった。その直後から削除されたポストが様々なところで転用され始めたのだった。
ネットの情報は、やはり消したら増える、のだ。
今回の件は、会社として見過ごすことができない、悪意ある情報の拡散だった。迅速に対処したつもりだったが、狙ったところに着地せず、火に油を注いでしまった結果だ。
百戦錬磨の広報マンである香田も、難しい対応です、と頭を抱えた。
午前から昼にかけて、状況が目まぐるしく変化する中、SNSの論調にも変化があった。
「言論の自由をねじ伏せるこの会社に信頼はあるのか? 親会社は現社長をどのように評価しているの? もはや有耶無耶は許されない。
#医療の正義#親会社の責任とは」
森生メディカルが該当記者に投稿の削除を迫ったことが、どこからか漏れていた。SNSではない別の手段で繋がっていれば、情報共有は容易であるため、想定はできる事態だった。
批判の矛先は、森生メディカルだけでなく、持ち株会社である森生ホールディングスにも向かっていた。管理責任を問う、企業批判へと進展しつつある。
しかし、その中でもわずかな光明があった。ここまできて、「煽る者」は大体判明してきたのだ。飯田は顧問弁護士とも連携し、この人物らに関して情報開示請求を行い、個々を潰していく作戦を提案してきたので、潤は了承した。
気がつけば黄昏時。
朝から対応に追われた五月十一日、月曜日は潤と颯真、二人の三十歳の誕生日だった。
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補足です。江上が調査結果として上げてきた報告「組織改正に関連した相模原研究所のスタッフたちによる拒絶反応」とは、3章第31〜35話あたりの相模原研究所に出張に行った時のエピソードです。
復習されたいというありがたやな方はぜひ。
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