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 その一言には驚いた。とっさにぐっと何かに心臓を掴まれた気がした。 「僕の相手のことを……それをマスコミに漏らしたのが、春日ってこと……?」  ちょっと待ってほしい。どういうことだろうと潤には訳がわからない。  少し、落ち着いて潤がそう問うと、春日はちらりとだけ潤をみて、俯いて小さく頷いた。 「……そうです」  蚊の入りそうな声。  すっと、冷たいものが上からしたに駆け抜けた気がした。 「どういうこと」  春日では埒が開かない。思わず藤堂を見た。  彼は、三人のなかで一番落ち着いていた。 「なんで、春日が知っているんだ」  潤は混乱した。  そもそも、自分は彼に颯真との関係を話した記憶はない。春日はこの三月に相模原研究所から品川本社に異動になったと聞いた。正直に言えばそれからの付き合いで、言葉を交わした記憶なんて本当に僅かなもので……。  素直に潤は疑問を口にする。 「どこで、誰に聞いて……誰に話したの?」  まさに消え入りそうな声で、俯いたまま春日は告白する。 「偶然聞いて……、それを佐賀部長に話しました……」 「さが……」  潤は、言葉を失った。急激に言葉の意味合いを理解する。  よりによって、あの男にか。  潤は、自分はよほどのことがなければ部下の前で気持ちを乱すことはないと、常に自分を律してきた。しかし、この衝撃的な告白は、潤にとってショックで、感情が一気に沸点を越え、爆発した。 「佐賀に……。なんで……」  潤は立ち上がり、春日の肩を掴む。その行為に春日が驚いたような表情を浮かべている。そしてそれは、申し訳なさそうな表情に変わった。  それがさらに潤の勘に触った。 「おい。聞いているんだが」  自分でも驚くくらいの低い声が、腹の底から出てくる。感情が露わになる。  あの男に、颯真との関係が知れたら……。 「なんで! よりによって、佐賀に……」 「社長……」  春日の顔が、一瞬あの憎らしい男の表情と被った。こんな近くに、あの男に通じる人間がいたのかと、穢らわしささえ覚えるほどだ。躊躇うことなく嫌悪感を表に出した。   「なんでお前が……、あの男に話す必要があった?」  颯真とは気持ちを通わせ、番になる約束をした。それで幸せだ。しかし、あの男に打たれた、フォロモン誘発剤グランスが原因となって、かけがえのないものを失ったという気持ちは、どうしても拭えない。潤はもちろんだが、颯真だって、あんなに苦しむことはなかった。  今の幸せな毎日を享受する気持ちと、この佐賀を恨む気持ちは、潤の中で両方とも矛盾することなく存在していた。  この負の感情は、皆に祝福され、颯真と番となり、幸せな家庭を築いていくうちに、いずれ癒えて消えていくものだろうとは思う。しかし、今はまだその傷跡は生々しく、わずかな刺激で鮮やかな血を流すのだ。  潤はスーツの襟を掴んで春日を立たせる。彼よりも小柄な潤が、襟を掴んで容易に立たせることができるくらい、春日は成されるがままだった。  それがますます勘に触る。 「言え」  声を荒げる潤に、藤堂が背後から諌める。 「社長。落ち着いてください」 「藤堂、どうしてお前が春日を連れてきた」  潤は背後を見ずに、今度は藤堂に問いかける。  藤堂は背後で僅かに言葉が詰まった様子。 「……俺も社長に謝罪しないとならないからです」 「そうだろうな」  潤は押し出すように春日を離した。彼は、よろめいて、再びソファーに腰を落ち着けた。   「春日を見逃したのは俺です」 「相模原の件の時か」  潤の間髪入れぬ指摘に、藤堂ははい、と頷いた。 「なるほど。相模原の噂の発信源は春日で、お前はそれを知っても僕への報告を行わなかった、ってところか」  自分でも驚くくらい、背後関係がするりと読めた。ヒントがあれば容易い構図。  春日はもともと管理部門の人間だ。佐賀と関係があったのだろう。春日の異動と相模原での噂の消失は、時期が重なる。  藤堂は、春日を庇ったのか。  ……いや、それは違うかもしれないと潤は嫌な可能性に辿り着く。  思わず吐き捨てる。 「で、佐賀に僕と颯真の話を流したのは、お前もグルか」 「それは違います!」    即座に否定したのは、ソファに座っていた春日。立ち上がって潤に向きあう。必死な様相だなと、そう思って少し潤の気持ちが萎えた。 「藤堂は見逃してくれただけです。自分が佐賀部長に話した件とは関係ないです!」  それをどうやって信じろと? と思う。  しかし、潤は僅かに頷いた。春日のその必死な様子は、少し落ち着いて考えてみる必要がありそう。意見だけは聞いてやろう。 「どうなんだ、藤堂」  藤堂は潤を見た。 「俺は誓ってあなたの話を胸に収めた日から、口にしていません」  受け入れてくれるなら胸に収めろ、受け入れられなければ忘れろ、と言った同期会の夜を思い出す。  潤は藤堂を見る。藤堂も見つめ返した。 「そうか」  頷く。結論は置いておく。 「お前があの時点で僕に報告しておけば、この事態は避けられたな……藤堂」  春日がどのタイミングで自分たちの情報をキャッチできていたのかは知らないが、それでも相模原研究所で奇妙な噂が流れていて、社長に対して奇異な目が寄せられている程度の時に摘んでおけば、ここまで話が大きくなることはなかっただろう。 「お前のミスだな」 「おっしゃる通りです」  そう当てつけのように言ってみたものの、心中で即座に否定した。それは違う。藤堂を選んで指示をした自分のミスだ、と潤は思う。  そして彼の報告を鵜呑みにして手を引いたのも自分のミスだ。その判断の甘さが、自分に返ってきただけの話だ。 「さすがにしんどいな……」  吐き捨てるように言う。 「社長……」  藤堂は気遣うような様子を見せるが、今は理性的に話せる自信が、潤にもない。 「悪いがこの件は日を改める。  少し冷静になりたい。また機会を作る。それまで他言は無用だ」  他言は無用といった側から佐賀に筒抜けかもしれないが、限界だった。  しかし、潤の提案に藤堂と春日は頷いた。 「……承知しました」

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