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これまでの経験を今話すことに意味がある。
尚紀の言葉を潤は反芻する。潤が知らない彼の半生のことだろうか。おそらく番の江上だってすべてを知っているとは思えない。
「僕の人生はペア・ボンド療法で救われたようなものです」
そう語り出す尚紀の口調は落ち着いて淡々としていて、きちんと今の自分を踏まえて考えている。いや、むしろ受け取り手の潤の方が重く感じてしまっている。
ペア・ボンド療法は確かに、彼の人生の転換点ではあっただろう。それを語りたいということか。
「ペア・ボンド療法に至るまでの、この身に起きたことを、僕自身の言葉で話したいと思いました。それはおそらく、インタビューの意図に適っていると思います」
片桐に何を聞きたいのかと率直に聞いたら、彼は「ペア・ボンド療法を受けた理由」だと答えていた。なるほど。
しかし、それは、これまでの過酷な人生を語るということ。誰も全てを知らない、彼が奈落の底から自力で這い出た経験談だ。
潤は、尚紀の覚悟を改めて思い知る。
しかし、同時に思う。そこまで晒す必要があるのか。
「今この時も、かつての僕のような目に遭っている子たちは少なくないと思うんです」
尚紀の話は思わぬ方向に進んでいた。
「学生生活をドロップアウトしてしまい、リカバリーができない子たちです。もう奈落の底から這い上がることを諦めてしまった子、その瀬戸際にいる子も。
僕の経験は、まずその子たちに向けたいんです」
潤は目を見張った。
尚紀が見ていたのは、かつての彼と同じ立場のオメガの子たち。
「僕の経験がすべて自分の実力であったとは思いません。僕だって、這い上がれるとは思っていなかったし、ご縁に恵まれたことや、運も左右している。そういう風に指摘をする人たちも出てくると思います。それでも、無駄ではないと思うんです。
今でなくてもいい。いつかそれを思い出してくれたら。そしてもう一度やり直す勇気を出してくれたら。そんな子が一人でもいてくれたら、僕が語った意味があると思うんです」
「尚紀……」
潤は意表を突かれて、尚紀を見た。
潤は颯真とよく話すことがある。
自分はたまたま運が良くて、学生生活をドロップアウトせずに済んだという話だ。しかし、世の中のオメガの子供たちみんながそうではない。
潤は自分のオメガとしての経験からそう実感している。
そして颯真は、誠心医大の診察室で、実際にそういったケースを目の当たりにして実感している。
現に統計上でも、他の性に比べてオメガの子は高校進学率が低いうえに、中途退学率は高い。高校生活をドロップアウトする可能性は高めなのだ。
多感な時期にオメガと判定され、いきなり偏見の渦中に放り込まれてしまう経験や、気持ちの整理もつかぬまま、身体だけ大人の階段を登らされてしまうことも理由にあろう。
現に尚紀だって、自覚がないまま街中で初めての発情期を経験し、そのまま前の番に項を噛まれたという経験を持つ。
そんな彼が、本来の番と絆を結び直せた「ペア・ボンド療法」は、まさしく救いであり、奇跡だっただろう。
その経験を、いま辛い思いをしている子たちに伝えたい。その意図は、このわずかなやり取りでも潤には十分伝わった。
「オメガの子たちがドロップアウトしがちなことを、自己責任で片付けてはいけないと思います。思いもよらないところで、ふとした拍子に起こったりする……そういう社会だから。僕は彼らに自分の言葉を届けたいんです」
もちろん、ペア・ボンド療法以前に、こういう子たちを減らす努力をするべきというのも十分にわかっている。それは正論だし、潤と颯真も、尚紀だってそう思っている。
だけど、そういうことではなく、今奈落にいる子たちに一歩踏み出す勇気を、背中を押せるのは、尚紀の言葉だ。
「尚紀は、すごいことを考えるね」
潤は素直に感服していた。インタビュー取材を受ける思惑のスケールが違う。尚紀がそんなに俯瞰的に、届く言葉の先まで考えてこの取材を受けたのだと、潤は想像もしていなかった。 その考えのきっかけはやはり自分たちのことだったのだろうと思う。そこからきた決断だ。しかし、尚紀がそこまで視野を広げられたということに、潤は単純に感動していた。
「僕はすごいと思う。尚紀を尊敬する」
すると彼は少し照れたような表情を見せる。
「いえ。僕は頭は良くないので……。最初はそんなことに気づきませんでした」
いや、違うのだ。潤は、尚紀のその勇気にも敬意を示しているのだが、おそらく彼はそれでも謙遜するのだろう。
しかしそうなると、それを気づかせた人物がいるということだ……。
そうかと思い当たる。
尚紀にその客観的かつ俯瞰した視点を与えた人物は……。
「片桐さんか」
尚紀は頷いた。
彼が、おそらく尚紀を表舞台に引っ張り出すためにそう言ったのだろう。おそらくずっと気づいていたのだろう。
尚紀を利用しているわけではないが、ここで尚紀が表に出ることの影響の大きさをすべて計算して、彼は言葉を囁き勧めたのだ。
本当にあの人は容赦がない。
……ふと潤は、再び総力戦、という言葉が脳裏をよぎった。
だから、尚紀をこんなものに巻き込みたいわけではないのに。
「片桐さんは、僕の言葉には力があるっていうんです」
その通りだ。有名人の一言には言葉の重さに加え、桁違いの波及力を伴う。
「僕は燻っていて……いや、いじけていたのだと思います。こんなにも怒りを感じるのに、自分には何もできないって。でも、その言葉に勇気をもらいました」
尚紀なりに救われる思いがしたのだろう。自分の経験を語ることで、かつての自分と似た境遇のオメガに勇気を与え、ペア・ボンド療法にも言及できるチャンス。
まるで巡り合わせのようだ。
「だから、インタビューを受けようと思ったんだね」
尚紀は頷いた。
「あの、僕のモデル仲間で今パリで活躍している人がいます。その人が言うんです。人生に無駄はない、いつか何かに結び付くって。
僕が今モデルをやっていて、人生の山も谷も見てきて、廉さんと再会してペア・ボンド療法で番になれた……すべてこのためだったんじゃないかとさえ思います」
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補足
オメガを取り巻く社会情勢については3章全体に散りばめていますが、とくに潤と尚紀、潤と颯真は、3章(15)〜(19)あたりで詳しく話しています。
また3章(78)あたりで尚紀の怒りを書いています。
復習されたいと言うありがたやな方はぜひ。
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