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筧 義松Ⅲ⑧
タクシーの中で、二人は無言だった。
運転手も気を遣ってか無言で運転に徹している。江東区に入り、アオイはようやく口を開くと、一言二言、道順について説明する。大きな商業施設を曲がり、高層マンションが立ち並ぶエリアに入っていった。
「そこの角でおろしてください」
タクシーが停車すると、料金をさっさと支払いアオイはタクシーを降りた。アオイの掌の熱がなくなる。一瞬の切なさを感じるものの、義松も運転手に礼を言って慌ててあとに続いた。
タクシーを降りた後も、アオイは無言だった。整備された綺麗な広い歩道、街路樹こそ少ないが立ち並ぶマンションはどこも緑豊かなエントランスアプローチだ。マンションの外構にも緑が溢れ、再開発の進んだこの街らしく清潔感に溢れている。
アオイは少し歩いて、シックな石目調のタイルのマンションに入っていった。
オートロックの自動ドアを抜けると、コンシェルジュこそいないが、大仰なエントランスホールに迎えられる。広々としたロビーがあり、奇怪な形をした椅子がまるでオブジェのように並んでいた。
何だこのマンションは、というのが正直な感想だ。
ぽかんとする義松をよそに、アオイはさっさとエレベーターに乗り込んでいる。エレベーターも鍵がなけれは動かないタイプだ。
視線で「早くしろ」と促された気がして「すみません!」と、慌ててエレベーターに乗り込む。
二人きりの密室で、義松ばかりがドキドキしていた。エレベーターはあっという間に十二階に到着した。
内廊下には絨毯が敷かれている。まるでホテルのようだった。義松の住んでいるワンルームマンションとは大違いだ。
「いいマンションですね」
鍵を開けているアオイに向かって話しかけた。
アオイはちら、と義松を振り返るとふっと笑う。感情の読めない笑みだった。
「どうも……お邪魔します」
アオイに「どうぞ」と促されるまま、たどたどしく靴を脱ぎ、部屋に上がる。
緊張する。
綺麗なマンションに圧倒されるのもさることながら、何よりアオイの部屋なのだ。
焼き鳥屋のトイレで〝あんなこと〟をした後だ。 エルミタージュの後にラーメン屋に行くのとはわけが違う。期待するなという方が無理な話だ。
しかしリビングの扉を開けた瞬間、義松は唖然とした。
「え……アオイさん、この部屋本当に住んでます?」
「住んでるに決まってるだろ」
思わずたずねてしまうと、アオイは再び笑った。
それほどまでに、この部屋は生活感がないのだ。
そこは2LDKの、だだっ広い部屋だった。
モデルルームのように生活感がない――いや、まだモデルルームの方が生活感があるだろう。カウンターキッチンのLDKには、ファミリー用の大きな冷蔵庫があるがあまりキッチンは使われている気配はない。家具はカウンターにハイチェアーが二つ並んでいる他は、フローリングの床にテレビが直置きしてあるのみ。ソファもテーブルもなかった。
「適当に座って。って言っても、座ることはそこしかないけど。あ、それともベッド行く?」
たちまち義松が真っ赤になると「冗談だよ」と妖しく微笑んだ。
どこまで冗談で言っているのかは分からない。あのトイレでの件も、部屋に呼んでくれた意図も。
「まだ酒飲む? ビールとワインだったら冷蔵庫に冷えてるよ。それともコーヒー?」
「じゃあ……コーヒーで……」
アオイは「オッケー」と機嫌よく返事をすると、ジャケットも脱がずに戸棚から電気ケトルを取り出し湯を沸かし始めた。
義松は促されるままにハイチェアに腰掛ける。冷凍庫からコーヒー豆を出すとドリッパーとサーバーを用意し始める。思ったより本格的なことが始まりそうだ。
「コーヒー、好きなんですか?」
「うん、好き~。あ、だけどドリップは見よう見真似ね? これは麗ちゃんの趣味。随分前だけど引越し祝いでくれて。俺、自分でこれ使うの初めて~」
その割には手馴れた様子だ。どこからともなくドリップポットを出してくると、ペーパーフィルターにレギュラーコーヒーをセットし、沸いた湯でくるくるとドリップを始めた。
「いい匂い~」とアオイはやっぱりご機嫌だ。
淹れたコーヒーを、サーバーから500mlはあろうかという大きなマグカップにどぼどぼと入れ替え、カウンターにドン、と置く。中々男らしい。
「はい、どーぞ」
「あ、ありがとう……ございます。いただきます」
「俺と仲間。ね?」
酔っているわけではなく、義松は目眩がした。
ここにきて「仲間。ね?」……だと? 可愛い。可愛すぎる。
キッチンを出て義松の隣に腰を落ち着かせた。ジャケットを脱ぎ、おもむろにハイチェアにかける。当然、Vネックからは鎖骨が覗いている。
「俺にもちょーだいっ」
義松が一口飲んだ後のマグカップを、アオイは両手で持つと「あちち」と言いながら、コーヒーをちびちび飲んだ。わざとやっているなら、大したものだ。あざとい。あざとすぎる。
そして義松は、コーヒーをふうふうしているアオイの唇から目が離せない。
この唇が、唇が――。
ふと視線を感じ、義松はハッとした。アオイがマグカップを両手で包み込んだまま、こちらを見ている。おかしそうに、目を細めて。
義松は無理矢理視線を逸らした。
無理矢理、話題も逸らした。
「それにしても、本当に何もない部屋ですね……」
アオイがくすりと笑う。
彼にはいつも、心の内を何もかも見透かされているかのような気分になる。そんなわけはないと分かっているが、彼にはいつまで経っても頭が上がらないだろう。年下のアオイに、つい敬語を使い続けてしまうのもそういうわけだ。
「だって広すぎるんだもん、ここ」
「じゃあ何でこんなにいいマンションに住んでるんですか」
「会社が近いんだ。前のアパートから通えないこともなかったんだけど。できれば早く出たくってさ、あまりじっくり選んでる暇がなかったんだよ」
「……もしかしなくても、アオイさんめちゃくちゃお金持ちですか? 別に生活困ってるわけじゃないですよね……なのに何で、あんな店でバイトなんか――」
そう言えば、アオイがあの店で働く理由は何だろう。
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