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「先生」  しばらくすると胸元から声がした。真澄はゆったりとした口調で「なんだい?」と返す。甘えるような仕草とは違い、夜彦の声は不安の色を孕んでいた。 「好き、なんですか」 「誰を――」 「ここの主人をです」  拗ねたような物言いに、真澄は宥めるように濡れた髪を撫でる。指先にちくりと刺さる短い黒髪。台所にある束子(たわし)よりは柔らかいなと真澄は笑んだ。 「うん。好きだよ」 「帰ってきやしないのにですか?」 「うん。そうだね」  この家も今の生活が出来るのも、全ては真澄を囲っている貿易商人の男のお陰だった。彼には感謝している。売れない詩人、もとより男子たる自分には僥倖(ぎょうこう)だった。 「君は確か春には卒業だろう。実家に帰るのだったね」 「はい」 「そうか」  真澄が身体を起こすと胸元に広がっていた熱が消えた。梅雨の冷たい空気が肌を撫でる。 「寂しいと思ってくれますか?」  立ち上がって着流しを着付ける真澄に、緩慢な動きで帯を結んでいる夜彦が問う。 「質問ばかりだね」 「先生は何も教えてはくださらないので」 「その先生っていうのはやめないか。自分が滑稽に思える」  障子を開けると外は薄暗く、鈍い青色が漂っていた。雨はまだ降っている。土が弾かれた音と共に匂いを放つ。  真澄が縁側に腰を据えると、隣に夜彦が座った。 「俺は、本気で先生が好きです」  夜彦が言い切った。真澄は青臭いなぁと笑う。 「ずっと、あの生け垣から先生を見ていた」  そう言って、夜彦は睨むように生け垣を見据えた。 「三年前、今のような梅雨の時期。先生は俺に声を掛けたんです」 ――風邪を引くよ。こっちにおいで  真澄は確かにそう言って声をかけていた。  その日、傘を差さずに制服を黒く雨に染めていた男が、真澄の目に止まった。よくこちらを盗み見ているのは知っていたが、(めかけ)のような自分を好奇な目で見る周囲の人間と同類であろうと勝手に思っていた。だからその日も、雨が降るのも構わず足取りを緩めた彼に声をかけたのだ。

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