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「あれはね。君を誂 っただけなんだ」
「分かってます。先生はとても楽しそうだった」
忌々しそうに夜彦は顔を歪めている。何処か陰りの滲んだ横顔だった。
「先生に近づけるならば、たとえ先生の一時の遊戯であったとしても構わなかった。たった一度きり――そうだったとしても、先生に触れられるのであればと――」
「見た目に反して女々しい男だな」
誂うように真澄は笑うも、夜彦は険しい表情を顔に貼り付けたままだった。
「俺はあの拙い行為の後、激しく悔いたんです。戻れないほどに先生に深く溺れてしまった。昼夜問わず、先生を思い出しては苦しんだ。わかりますか? 俺の懊悩が」
夜彦は目元に両手を当てて俯いた。酷く苦しげな声が続く。
「先生は卑怯だ。雨の日だったら此処に来ても良いと言った。梅雨時であれば、人気も少ないから尚、問題ないとも」
「そうだったね。最低な人間だろう。僕は」
真澄は裸の足を縁側から出し、雨粒に晒す。冷たく、皮膚に突き刺さるようで痛かった。
「ええ、愚かで馬鹿な人だ」
吐き出すように罵倒する夜彦の言葉を真澄は静かに受け止めた。会うのが今日で最後になる。言わずとも夜彦は察しているのかもしれない。
「でも――俺は、そんな先生でも好きなんです」
愛してますと言って、夜彦は真澄の肩を掴んだ。
互いに向かい合い、真っ直ぐな黒眼が真澄を映す。大きく見開かれた眼に、ぽっかりと開いた唇。唖然とした自分の顔だった。真澄は慌てて視線を逸し、庭に植わった桃色の紫陽花に目を向ける。
「綺麗だろう」
取り繕うように明るい声で真澄は言った。
「紫陽花というのはね、咲く場所によって花の色を変えるんだ」
訝しげな表情を浮かべる夜彦に向けて、真澄は口元を緩めた。
「移り気という意味があるそうだよ」
「俺の気持ちが変わるとおっしゃりたいのですか」
淡々とした声音には憤りが滲んでいる。
「君は商家の倅 だろう」
「関係ありません」
「あるさ。僕は此処 から出られないし、君は出自 に縛られる」
反論しようと口を開きかけた夜彦に、真澄はそれにね、と続けた。
「此処の主人が危ぶんでいるんだ」
夜彦の口が真一門に結ばれる。
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