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「最近男が此処を出入りしていると耳にした。雨宿りにしては、長いんじゃないのかってね」  梅雨に入る前。渡米するという男が一度こちらに顔を出した。その際、真澄を組み敷きながら男は言ったのだ。(みそぎ)を立てろとは言わない。だが、立場を弁えろと。男の顔はいつもと変わらず、能面のような無情さだった。  三年も隠し通せた――いや、男は薄々気づいていたのかもしれない。 「良い機会だったんだ。此処まで分からなかったのは、僕の演技力の賜物かな。それとも君が濡れ鼠になったのが功を奏していたのかな。よく何度も雨の中を足労したものだ。ご苦労だったね」 「先生、俺――」  いつの間にか夜彦に固く握られていた手を真澄は退けた。夜彦の顔が歪む。泣き出しそうで、痛ましく――ともすれば真澄は抱き寄せ、そんな顔をするなと言って宥めていたかもしれない。でも甘やかしはしなかった。そうでなければ互いに情を抱え、一生を送ることとなる。 「僕も身の程を弁えようと思う。君は情婦を相手に、一時の遊びに興じていたと思えばいい」 「先生は……それで良いのですか」  失意の念が夜彦の顔に広がった。 「いいもなにもないよ。初めから、それだけだ」  そう言って真澄は立ち上がった。足はじっとりと濡れている。 「ほら、雨は弱まったよ。そろそろ帰ったほうがいい」  そう言って居間に戻ると、かけていた制服を手に取った。すっかり乾いた黒い制服。金ボタンが熱い。  二度と触れることはない彼の着衣を隠れるように、真澄はそっと掌を這わせた。 「傘を持って行きたまえ」  玄関先で真澄は近くにあった黒地の洋傘を手渡した。辞退しようとする夜彦の手に、強引に柄を押しつける。 「せっかく乾かしたのに、意味が無いだろう。これは返さなくて良い」  夜彦が眉間を寄せる。いつもなら学校に向かう前に家の前にでも置いておいてくれ、と真澄は言っていた。だがそれは、また使うことになるからという、隠された約束でもあった。 「先生、お願いがあります」  夜彦は視線を落とし、傘の柄を強く握っていた。 「なんだい?」 「詩を――俺の為に詩を送ってくれませんか?」  夜彦の願いに、真澄は言葉に窮する。彼に自分の詩を見せたことはなかった。 「君は詩が分かるのかい」 「詩歌に明るくはありませんが……先生が書いてくださった詩ならみたいです」  夜彦はお願いしますと言って頭を下げた。さすがに無碍には出来ず、真澄は分かったと言った。 「いつになるか分からない。でも、君だけの詩を詠むよ」 「ありがとうございます」 「風邪をひかないようにね」  真澄は微笑み、頭を下げてから傘を差した夜彦を見送った。  翌日から晴天の日が続いた。梅雨は明けたのだ。

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