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第5話 王様の耳は(1)

 僕はつい足を止めて、先生たちから目を離せないまま、その場につったっていた。先生がこちらに近づいてくる。偶然会っただけだ、普通に「こんにちは」と言って会釈ぐらいして通り過ぎればいい。そう頭では分かっていたけれど、とにかく僕はその場から動けなかった。たくさんの人たちが行きかう中で、立ちすくんでいる僕は逆に目立ってしまったのだろう、やがて先生のほうも僕に気が付いた。 「おや、明生。こんなところで。」先生は人波を器用によけながら、僕の目の前までやってきた。連れの人はその一歩後ろからついてきて、先生の斜め後ろに立った。 「こ……こんちは。」僕はやっとのことでそう言い、頭を少しだけ下げた。 「この子ね、塾の生徒。明生くん。」と先生は振り返りながら、連れの人に僕を紹介した。 「こんにちは。」連れの人は穏やかに笑った。この人も、先生ほどじゃないけど、ちょっとしたイケメンだ。男にしては若干髪は長め、でもロン毛というほどでもない。僕にぺこりとお辞儀した瞬間に少しだけ乱れた耳元の髪を、その人は何気なくかきあげた。ちらりと見えたその耳たぶに、先生と同じピアスがあることを僕は見逃さなかった。なんたって、僕は視力は両目2.0なのだ。どういうことなんだろう。普通に考えたら、2人は友達。お揃いのピアスをするぐらい、仲が良い、友達。……それって、普通かなあ?  僕の視線の先に、先生も気が付いたようだった。「あー、えーっと、彼は。」先生は僕に説明するのに、明らかに戸惑っていた。ここで戸惑うということは、つまり、そういうこと? マジで? この人、もしかして、女の人だったりする? 背の高い先生より更に背が高いけど。肩幅が広くて、胸もペタンコだけど。先生だって、いま「彼は」って言いかけていたけど。この人と話していた時の先生は、僕たちに見せる笑顔とは違う、とろけるような笑顔だったけれど。 「七夕生まれの人?」と僕は言った。僕の言葉に、連れの人のほうがびっくりしたようだった。なんで知ってるの、とでも言いたいのだろう。 「うん、そう。」先生はあっさりと言った。「そうなんだよ。」改めてそう言って、にやりとした。  そっか。本当に、そうなのか。そんなことって、本当に、あるんだ。僕は、先生に彼女がいるって知った時、その彼女は、きっと美人で、小柄で、目が大きくて、足が細い、可愛らしい、テレビに出るアイドルみたいな女の人なんだろうと想像していた。目の前のその人は、当たり前だけど、想像とは全然違った。全然違ったけれど、先生はこの人が好きなんだ。そのことは、目の前の先生からビンビン伝わってきた。 「みんなには、しーっ、なんだよね?」僕は人差し指を口の前に立てた。 「そうだね。」  先生がそう言った瞬間、連れの人の表情から微笑みが消えて、後ろから先生の肩をグッと押さえた。「ちょっと、なんでこの子が」その先はうんと小声になり、僕には聞こえなくなって、最後に「大丈夫だよ、明生は。」と先生が答えるのだけが聞こえた。それから先生は僕を見て、「隠してるわけじゃないけど、言うと、傷ついたり、嫌な気持ちになったりする人もいるから、ね。」と言った。 「わかった。」本当は、よくわからない。先生が男の人とつきあってることで、嫌な思いをする人って、誰だろう。菜月あたりは男でも女でも、先生に恋人がいたら、それだけで悲しむだろうけど。そういうこと? とにかく、先生が言ってほしくないなら、僕は誰にも言わないつもりだ。『大丈夫だよ、明生は』って言ってくれたのが聞こえた時、すごく嬉しかったし。つまりこれは、男の約束ってやつだ。 「さすが明生。そうだ、せっかくここで会ったのも何かの縁、アイスでも奢ってやろうか?」 「口止め料?」 「違うよ、おまえ、生意気なこと知ってんな。」 「お邪魔だし、いいです、そんなの。そんなことしてくれなくても、みんなには黙ってます。」と僕が言うと、先生は僕に軽くデコピンをしてきた。 「こういう時は素直に奢られとけ。な?」  僕は連れの人を見た。僕と目が合うと、最初に見た時と同じ、穏やかな表情で「甘えておけば?」と言った。なんか、すっごい余裕を見せつけられた感じ。片想いの相手の、本当の恋人。僕なんて敵じゃないってか……。

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