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第10話 王様の耳は(6)

「ありがとう。」菜月はもう一度そう言うと、「さようなら。」と言ってお辞儀をして、帰って行った。ほら、こういうところが、今までとは違う。前だったら、こんなことがあったら、ここぞとばかりに、しつこく先生にまとわりついて、教室長にいいかげん帰れと怒鳴られるまで居残ったはずだ。居残ったのは、僕のほうだった。 「女子は、難しいなあ。」と先生が呟いた。「あのペンも、中学生の女の子が何がいいかなんて全然わかんないしさ、女友達に選んでもらって、結構苦労したんだけどな。」 「喜んでたじゃないですか。」 「そうかなあ。」 「ていうか、女友達、いるんですね。」  先生は椅子に座っていたから、僕を見上げるようにして、言った。「女友達なんて、いなさそうに見える?」  僕は改めて先生の顔をじっと見る。めったに見ることのできない上からのアングル。それでもやっぱり、つくづくイケメン。「そんなことないですけど。……あ。」 「うん? 何か?」  僕は、またも、気付いてしまった。どうして僕は、気付きたくないようなものばかり、見えてしまうんだろう。「ピアス、前のと違う。」 「おまえ、ホント、俺のこと、よく見てんのな。」先生は苦笑いをした。それから、ふと真顔になった。「これさ、涼矢とお揃い、パート2なんだ。明生も知ってると思うけど、昨日、あいつの誕生日だっただろ。同じのを涼矢にも贈ってある。」  なんで先生、そんなこと、急に言い出すんだろう。僕は混乱した。どっと汗が噴き出した。 「す、すごく、似合ってます。あの、涼矢さんにも、きっと。」 「ありがと。……明生は偉いな。俺よりよっぽど大人だ。」先生はぎこちなく笑った。 「え?」 「人を好きになるってさ、すごくエネルギーが必要で。俺は、おまえが思ってるほど大人じゃないから、今は涼矢のことしか考えてやれないんだ。ごめんな。」 「な……にを。何のこと、言ってんですか。」 「わかんなきゃわかんないでいいんだけど。」そんなことを言うと、デスクの上に書類をこれ見よがしに出して、さも僕が仕事の邪魔であるかのような素振りをした。 「ぼ、僕、何かしましたか? 何も言ってないし。なんでそんなこと、いきなり言われなくちゃなんないんですか。」 「ほら、もう、帰りな。あ、そうだ、夏期講習の申し込み、15日までだからな。まだ1年だから無理強いはしないけど、受けられるなら受けたほうがいいよ。家の人とよく相談して。」 「なんで話、変えるんですか。」  僕がそんな風に食い下がるとは思ってなかったようで、先生はちょっとびっくりしていた。「難しいのは、女の子だけじゃないのか。」ハア、とため息をついた後、少し考え込み、ようやく顔を上げたかと思うと、急にしゃべりだした。またさっきと同じような、ぎこちない笑顔だった。「いや、悪い。ごめん。俺が全面的に悪いわ。こんな時に、こんな風に言うことじゃないな。明生の言う通り、おまえは何もしてないのにな、変なこと言って、ごめん。」 「別に……もういいです。」僕は駆け足で教室に戻り、バッグをつかむと、そのまま挨拶もしないで塾を出た。  何なんだ。何が「ごめんな」なんだ。なんか、振られたみたいになってるけど、僕は、何も言ってない。そりゃ、僕は先生のこと、好きだけど、先生にはそれを伝えてない。これから先も伝えるつもりはなかった。だって僕はこんなガキで、バカで、不細工で、取り柄もなくて、ていうか男で、いや、そこは、先生の場合、男でもいいのかもしれないけど、それは涼矢さんみたいな人が相手だからで、特別だ。そんなことは、先生に言われなくたってわかってる。だから、僕は、先生のことはただ見ていられれば良くて、実際、そうしてきたんだ。なのに、なんであんなこと言われるのか。

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