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それがたとえ愚かな結末だとしても、
「…………」
どうやら気を失っていたらしい。目覚めるとそこはいつもの見慣れた自分の部屋で、着た覚えのない寝間着までご丁寧に着ている。
――コンコン
「弥彦様、起床のお時間でございます」
「…………」
いつもなら、弥彦をこうして起こしに来るのは千景の役目だったはずだ。
弥彦は不機嫌さを隠そうともせず、使用人に問う。
「千景さんは?」
「……っ、いらっしゃいます。しかし、弥彦様を起こしに行くのは自分じゃない方がいいだろう……、と」
「……今すぐ、ここへ千景さんを」
「……しかしっ」
可哀想に。この使用人は何も悪くない。けれどここで諦めては、千景はこのまま何処かへ行ってしまうだろう。
「いいか。これは命令だ。今すぐ、ここへ千景を連れてこい」
「……ッかしこまりました」
息を飲んで顔を強張らせた使用人は、慌てて弥彦の部屋を出ていく。
それからしばらくして、何とも居た堪れない表情を浮かべる千景が部屋へやって来る。
「……若、お呼びでしょうか」
千景のこんな冷たい声音は、今まで聞いたことがない。千景は、自分と距離を取るつもりなのだろう。
「その呼び方は止めてくれ」
「……。俺に何か用かな、弥彦くん」
弥彦の言葉に小さく溜息を吐いて、観念したように千景は口調を崩す。
「今朝、何で違うやつを寄越した?」
「……それは」
「昨夜の事なら気にしなくていい。そもそもアンタの後をつけて、部屋に入ったのは俺だからな」
否定を許さぬ強い口調。
「千景さん、アンタ昔から時々いなくなる時あったよな」
「……定期的にああなるので……。浅ましいでしょう?」
弥彦から目を逸らし、自虐的に千景はそう言う。ああなっては自分ではどうにも出来ないし、弥彦が感じた〝匂い〟で誰彼構わず誘惑してしまうから、部屋に籠るしか手立てが無いのだと。陰間茶屋にいた頃は、客に抱かれれば幾分マシになったけれど、今はそういうわけにもいかないのだとも付け足す。
「じゃあ、俺を呼べばいい」
「……はい!?」
「一も百も大差ない」
「そ、そんなわけにはいかないでしょう!? 俺自身、この体質についてまだまだ知らない事が多いんですっ……。京家の跡取りである君を、巻き込むわけにはいかない」
「じゃあ、千景さんはそうなる度にああやって一人で部屋にこれからも籠るっていうのか。今は良くても、いつかばれるかもしれない。そうなった時、きっと困るのはアンタだけじゃないぞ。だったら、成り行きだろうが、事情を知ってる俺を味方につけておいた方が得じゃないか。相手がいることで、状況が少しでも改善されるなら、猶更だろ」
「……分かったよ。ただ、さっきも言った通り、俺が抱かれる方が症状は改善されるけど、それこそ何があるか分からない。きっと、今弥彦くんの要求を呑まなかった時よりも大変な事になる。だから……」
千景の意思を汲み取って、弥彦は頷く。これは二人だけの秘密で、弥彦が抱かれる側に回ること。それが、千景の提示した条件だった。
◇◆◇
それから五年の月日が経った。
「……どうするんだ、雨月?」
歌舞伎座京屋が贔屓にしている、土産物店の次男で、兄の時雨とともに幼い頃からの腐れ縁である東雲雨月が、陰間茶屋の男娼だった水野蛍との間に、子供を身籠ったという。
にわかには信じられない話だ。けれど、思い当たる節はある。
「……雨月、お前が思ってるほど〝世間〟の目は甘くないぞ」
今まで様々な目にあてられてきた。〝世間〟という目は、想像していたりも遥かに重く、煩わしい物だという事は、弥彦が一番よく知っていた。
「私が、そんな噂を凌駕するだけの人間になればいいだけの話です」
(……その自信はどこから来るのかねえ……。俺も、雨月みたいに死に物狂いで手に入れようとすれば、少しくらいは手が届くんだろうか……)
揺るぎの無い決意。こういう目をしたやつは、こちらが何を言っても無駄だろう。それで、本当に噂を凌駕するだけの人間にもなれてしまうのだろう。
「はあ~……。東雲家には日頃から世話になってるしなあ。……よしっ、ここは京家が責任をもってお前ら二人を匿う。それでどうだ?」
幸い家柄のおかげで、別邸なんてのはそれなりに所有している。二人を匿う程度、どうって事はない。
話が落ち着き、途中乗り込んできた時雨と共に雨月と蛍が屋敷を後にし、部屋には千景と弥彦の二人。
「……良かったの、弥彦くん」
「なにが?」
「もし、あの二人の事が公になれば……」
「どんな手を使っても、あいつ等は俺が守るさ」
『心配ない』と弥彦は静かな口調で言う。それより――と、弥彦は千景に向き直る。
「なあ、千景さん。蛍の〝体質〟、あれって千景さんと同じやつじゃないのか?」
「…………」
千景は床に視線を落とし、何も言わない。
「時雨が言ってたルイスってやつが、お前さんがあの茶屋で働いてた時にも来たんじゃないのか」
「…………」
あの場で蛍の妊娠が分かった時、千景だけが驚いていなかった。表情一つ変えず、皆の話を聞いていた。けれど、時雨からルイスの話が出た時だけ、一瞬驚いたような表情になったのを弥彦は見逃さなかった。
「千景さん」
「…………」
視線を落としたまま、千景は頑なに口を開こうとしない。
――ダンっ!!!
痺れを切らした弥彦は壁に手をついて、千景に詰め寄る。
「千景、説明しろ」
「……。話したくないと言ったら?」
「それは通らないな」
弥彦がそう言っても、千景はしばらく口を開かなかった。二人の間に沈黙が流れる。やがて千景は、弥彦の腕の隙間から這い出て、ぽつりぽつりと語りだす。
◇◆◇
それは千景が陰間茶屋で働き始めて、数年経った頃。千景が茶屋で働き始めたのは、十歳の頃。もうすぐ十一になろうかという時だった。親が資金繰りのため、子供を売りに出す。今の時代ではよくある事だ。千景の両親は、近所でも金遣いが荒い事で有名だった。もうあまり覚えてはいないけれど、よく取り立てに役所の人間が来ていたのは覚えている。
そんな両親に子供ながら、良い思いはしていなかったし、売られる事になった時も先の不安よりも、ようやく解放されるという思いの方が強かった。最初の仕事は、遊郭で言う所の〝禿〟つまり、小間使いのような雑用が主だった。そして十三になった頃、初めて客を取った。発情期が来たのも、大体そのくらいだったように思う。その頃は、蛍がいた時ほど見世の状況も悪くなく、発情期の間は具合が悪いと言って、部屋に籠っていた。今にして思えば、千景はその見た目から見世にいる他の男娼よりも客を取っていた事もあり、優遇されていただけなのかもしれないけれど。
千景が発情期の間も客を取る様になったのは、十五になった頃からだった。年を重ねるごとに、症状は悪化し、自分だけでは処理しきれなくなったからだ。けれどその時期だけは、中に出される事だけは徹底的に拒んだ。自分の体質について知識の無かった頃だったが、本能的に嫌だと思ったのだろう。時には、無理やり中に出そうとする客を殴り飛ばした事もあったけれど、楼主も見世で人気のある千景を外す事は出来なかったのか、内々でもみ消される事となった。
そして千景がルイスに出会ったのは、千景が十七になった頃だった。
いつものように張見世に出ていると、不意に鼻をくすぐる甘い匂いとともに、見世を物色している一人の外国人の男と目が合った。向こうも自分に気付いたのか、驚いたような表情を浮かべ、楼主の元へと走っていく。程なくして、その男から指名が入ったようで、千景は部屋へ上がった。
「ご指名、ありがとうございます。ちかげ、と申します」
毎夜の決まり文句を口にしながら、彼から僅かに漂う甘い匂いに身体が疼く。
「〝ちかげ〟デスカ。良イ名前デスネ。私ハ、〝ルイス=レイノルズ〟ト申シマス。〝ルイス〟ト、オ呼ビ下サイ」
「ありがとうございます。ルイス様は日本語がお上手なんですね」
「マダマダ、日本語ハ難シイデス。チカゲ、私ハ貴方ト話ヲシタクテ貴方ヲ指名シマシタ」
「話、ですか」
茶屋に来て、話だけをしに来たというのは随分と珍しい事だ、と千景は思う。それに、この男とは初対面のはずだ。
「私ノ母国デハ、貴方ト同ジ匂イヲ放ツ方ガイマス。ソノ方々ハ、アル一定ノ周期デ動物ノ様ニ発情期ヲ迎エ、男女問ワズ子ヲ身籠ルト報告サレテイマス。貴方モ、ソウナノデハナイデスカ?」
「…………」
にわかには信じ難い話だ。顔を強張らせた千景に、ルイスは話を続ける。
千景の様な体質の持ち主は、彼の母国でも少数であり、自分は研究者として他国で事例がないか旅をしているのだという。世界で大多数を占めているのが、βという一般的な性。数少ない優秀な人材の多いα。そして、千景の様に定期的に発情期が来て、αβ男女問わず誘惑する匂いを放つΩ。発情期中に性行為をすると、高確率で妊娠する事。Ω自身が受け入れる側でなければ、発情期中であっても確率は下がる事。今後、今以上にαΩの人口が増えるであろうと予想される事などを、ルイスは淡々と千景に話していく。
「αΩノ人口ガ増エレバ、匂イニ充テラレタαガ貴方ノ様ナΩヲ襲ウ事モ増エテ来ルデショウ。私ハソレヲ避ケル為ニ、薬ノ研究ヲシテイマス」
そう話すルイスは、懐から小さな包みを取り出すと、千景にいくつかを手渡す。試作品だが、Ωの匂いの発生を抑える、抑制剤だという。
「貴重なものではないのですか?」
「私ハ研究者デス。ソレハ私ガ開発シタ物。貴方ニ使ッテ欲シインデス」
そう言ってルイスは見世を後にしたという。その後、見世にルイスが現れる事はなかったが、彼のくれた薬は確かによく効いた事もあり、千景は症状の酷い時に服用するようにしていたという。
「彼とはそれきりだよ。けど、ルイス様が日本に戻って来ていた事は予想外だったかな」
自分が知っているのはそれだけだと、千景は肩を竦めて見せる。
(なるほどな……)
「……そのルイスってやつ、探してみる価値はありそうだな」
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