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第30話

「よし! それじゃ決まりだな。これからもよろしく頼む」  そう言った氷川の傍らで、僅か浮かない表情の冰が遠慮がちに口を開いた。 「龍……本当にいいのか? その、俺――本当は今日お前に……」 「代表を降りる――なんてのは許さねえぞ?」  冰の語尾を取り上げるように、氷川はそう言った。口元にはニヒルな笑みが携えられている。当の冰は、何故分かったんだといったように、滅法驚き顔だ。 「xuanwu(シェンウー)はお前にとって家も同然だろう? そしてスタッフたちは家族だ。皆だってお前のことをそう思ってる。そんな家を出て行くなんて許されねえだろうが」  氷川には分かっていたのだ。冰にとってあの店がどれ程大事なものかということ――、それと共に、責任感の強い彼が、今回のことを気に病んで代表を退かんとしていることもお見通しだったわけだ。 「……龍」  冰もそんな氷川の思いやりを充分理解できているから、思わずこぼれ落ちる涙を抑えることができなかった。 「龍……ありがとう……。本当に……」  涙声でうつむいた冰の肩を抱き寄せながら、氷川は微笑った。その笑顔はあたたかく、心底大事な者に向けられた、愛しさのあふれるものだった。 「ところで遼二に紫月――、お前たちにもうひとつ頼みがある」  氷川は側近の(リー)を呼び寄せると、彼から革製の薄い箱を受け取り、それを遼二と紫月の前へと差し出してみせた。 「これを受け取って欲しい」 「――はい、あの……これは……」  一体何だろうかといった表情で、二人共不思議そうに首を傾げている。 「開けてみろ」  氷川に促されて箱を開いた二人の瞳が、驚きに見開かれた。そこには何かの鍵らしきものが挟まれていたからである。 「あの、これ……?」 「お前たちがこれから住む部屋の鍵だ。場所は俺と冰が住んでいる同じフロアの隣の部屋だ」 「ええっ……!?」  二人は同時に素っ頓狂な大声を上げた。  現在、氷川と冰が暮らしているのは、氷川が都内のベイフロントに所有する高層ビルの最上階だ。広大なフロアには、個別に住める部屋が二世帯分あって、その一戸に氷川らが暮らしているのだ。もう一戸の空いている部屋は、本来側近の李の為にと氷川が用意したのだが、彼は恐縮して、一階下のフロアに住んでいるのだった。  つまりは、どうせ空き家である。 「お前らに住んでもらえたら利便性もいいと思うんだがな」  氷川はまるで平然とした調子でそう言うが、若い二人にとってはあまりにも恐縮というものだ。特に遼二の方は氷川の側付きとして自宅にも行ったことがあったので、その豪華さはよくよく承知しているから尚更であった。

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