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3:オメガになりたい

 その日の夜、陸は自室のベッドに腰掛け、ぼんやりと窓の外を眺めていた。  まるで廃人のような一日だった。  何をしていても、陸の頭に響くのは桐崇のあの悲しげな声だけだ。  コツン、と何かが窓を叩いた。カーテンを開くと、隣の家のベランダから箒の柄をこちらへ伸ばすユウの姿があった。  昔からよく窓から顔を出して、ベランダに出ているユウと話したものだ。  しかし、ユウの様子がおかしかった。体をベランダの柵に預け、顔が真っ赤だ。 (風邪か? いや、まさか……)  ユウが潤んだ瞳をこちらにむける。 (発情期?)  その目を見た瞬間、陸はこれまでに感じた事のない衝動に狩られた。  ――今すぐユウを抱き締めたい。その唇に吸いつきたい。 (俺は何を考えているんだ)  そんな目でユウを見たことなかった陸は動揺したが、それ以上に衝動が強かった。  衝動の正体は、欲情だ。  発情期のオメガと対面したのは初めてだった。  オメガの発情期は、アルファを強烈に惹き寄せる。知識はあったが、陸の思考は徐々に鈍っていった。  陸は窓を開けた。ガラスを通さずにユウを見ると一層胸が高鳴った。 「りっくん……来て」  陸はユウの言われるがまま、窓の桟に足をかけ、隣のベランダへ飛び移った。  陸はユウを見下ろした。夢を見ているような非現実的な感覚だった。ユウの柔らかな腕が陸の首に巻き、ユウは陸の耳元で囁いた。 「ボクを抱いて」  それが引き金となって、ユウを抱きしめると、サッシから部屋の中へと入った。そして陸はユウを乱暴に床に押し倒した。  情欲に駆られた陸は、ユウの前開きのパジャマを乱暴に引っ張った。ボタンが飛んで、壁に当たって跳ね返る。 「あう」  ユウは怯えたように目を瞑った。 『ーー君たちはお似合いだよ』  ふと誰かの声が脳裏に響き、陸は手を止めた。 (誰の声だっけ……) 「りっくん……?」  手を止めた陸にユウが不安そうに見上げた。  ユウの甘い声に誘われるように、首筋に唇を寄せた。 『陸! しっかりしろ!』  脳内にはっきりと響いた声。  眼鏡をかけた少年が脳裏に浮かんだ。怒っているような悲しんでいるような表情だ。 「きり……たか……?」  その名を口にした瞬間、魔法が解けたように、陸は我に返った。しかしすぐに情欲の衝動に戻されそうになる。  陸は身を起こすと、雄叫びを上げた。 「ごめん、ユウ! どんなにお前が魅力的でも、俺は、桐崇以外とヤらないんだ!」  陸はそう叫ぶと立ち上がって、逃げるように玄関から外へ出た。そして裸足のまま駆け出した。アスファルトの小石が足裏に刺さっても、走る足を止められなかった。  ユウを襲った事実と熱に当てられた体が、ひどく陸を混乱させていた。  陸はポケットから携帯電話を取り出すと、桐崇の番号を押した。  何度かのコールの後、桐崇の警戒しているような硬い声が聞こえた。 「……なんだ」 「桐崇、俺……、どうしよう」  桐崇の声が聞こえた瞬間、張り詰めていた緊張が緩んだ。不安で泣き出しそうだった。陸は走りながら、涙を必死にこらえた。 「どうした?」 「助けてくれ」 「今、どこにいる?」  そう言われて、初めて足を止めた。無意識に桐崇の家に向かっていたようだった。陸は小さな公園を見つけた。 「公園。桐崇の家の……近くの」 「すぐ行く」  桐崇が短くそれだけ言うと、電話は切れた。    陸は携帯電話をポケットにしまうと、その公園に入った。ベンチに腰掛け、背を丸めると深くうなだれた。  桐崇が来るまで、誰の姿も誰の声も聞きたくなかった。  先ほどの野獣のような自分を思い返すと消えたくなったし、何よりその熱が今も消えていない事が辛かった。  足元の砂だけを見つめていた。時々、公園の前を通る車や通行人の気配が現われては消えていく。  しばらく経つと、駆け足で公園の中に入ってくる足音が聞こえてきた。走っていても規則正しい足音。 (……桐崇)  顔を上げると桐崇が心配そうな顔をして見下ろしていた。 「大丈夫か? 何があったん……」  全て言い終わる前に、陸は桐崇の腕を引いて、強引に唇を奪った。唇と唇が触れ合うだけのキスだったが、陸にとっても、そしておそらく桐崇にとっても、それが初めてのキスだった。 「お、お前! いきなり何を」  桐崇が真っ赤になって離れた。陸は立ち上がると、嫌がる桐崇の体をきつく抱きしめた。 「陸、お前まさか……んッ」  桐崇は何かに気づいたようだったが、陸は話も聞かず、もう一度唇を寄せた。今度は桐崇は拒否しなかった。  桐崇の唇は柔らかく、濡れたそれは、舐めると冷たかった。ぴくりと肩を揺らした桐崇を逃さないように、しっかりと抱きしめたまま、深く口付けた。 「……んッ、ふ……」  桐崇の顔が赤い。陸の頬も熱を持っていた。  陸は桐崇とキスを繰り返すうちに、先ほどまでの衝動のような欲情が消えていたことを知った。代わりに体の底からじわりと滲むような熱を感じていた。 「落ち着いたか?」 「別の意味でやばいかも」 「馬鹿」  桐崇は呆れたような声を出したが、その手は柔らかく陸の頭を撫でた。陸は意を決して、桐崇と向き合った。 「桐崇、番なんて関係ない。俺は桐崇が世界で一番好きだ。それじゃ駄目なのか?」  一瞬、ぽかんと陸を見た後、桐崇は吹き出した。 「君には敵わないな」  桐崇はひとしきり笑った後、ばつの悪い顔をして俯いた。 「結局、僕は自分が傷つきたくなかっただけなんだ。君と恋人関係を続けて、君に番ができるのを恐れてた。……でもそれは裏を返せば、君を信じてないという事だよな。ごめん」  陸は、桐崇の話しは半分に聞いて、俯いた桐崇の項をぼんやりと眺めていた。桐崇の項は電灯に照らされ、白い。  陸は誘われるように桐崇の(うなじ)に噛み付いた。 『オメガの項をアルファが噛む事で、二人は番となる』  陸はそんな言葉を思い出した。無論、ベータである桐崇にそんな事をしても、番になれる訳ではない。  少しでも安心してほしいという思いからだったが、桐崇は思いの外、狼狽していた。  「きっ、君はなんてこと……ッ! こんなことしたって、何の意味もないだろ! 馬鹿!」  桐崇は片手で項を抑え、陸に思いっきり怒鳴ったのだ。 (そんなに怒らなくても)  怒った桐崇はクドクドと文句を言う。陸は叱られた子供のようにシュンとして、桐崇の説教に備えたが、いくら待っても何も言ってこない。  陸は顔を上げると、桐崇は項を抑えたまま、俯いていた。その足元にいくつかの水滴が落ちていく。 「桐崇クン……、もしかして泣いてる?」 「泣いてない」  桐崇は即答したが、その声は涙声だ。  陸はしゃがみ込むと、桐崇の髪を掻き分けて、その顔を露わにさせた。  桐崇は泣いていた。  長い睫に涙を溜めて、瞬きする度に、ポロポロと涙を落とす。 「僕は、君と番になりたい」  桐崇は絞り出すように言った。そして泣きながら、陸に思いをぶつけた。 「君がアルファなら、僕はオメガに生まれたかった。オメガに生まれて、君と番になりたかった」  桐崇は、陸の手を掴むと涙を溜めた目でまっすぐと陸を見つめた。 「陸……、好きだ。君が好きなんだ」 「俺も桐崇が好きだ」  陸は桐崇を抱きしめると、再び唇を重ねた。

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