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先き立つ者 19
「……雪耶」
俊幸は起き上がり、鍵付きの引き出しの前へ立った。小さな鍵を取り出し、解錠する。この引き出しを開けたのは数年ぶりだった。
「やっと逝ける……父さんも、すぐに逝くから……」
キッチン用の鋏は通常のものよりも刃が鋭く、何も持ち合わせていない俊幸にとっては、最大の武器にも思えた。ギラギラと鈍く光るそれは、俊幸のわずかに残った迷いを取り払うには充分な威力を秘めている。
大ぶりな鋏を手にし、引き出しを閉じようとしていた俊幸だが、奥の方に何かが引っかかっているのを見つけた。一度鋏を置き、手を伸ばして取り出す。
「ああ……懐かしいな……」
それは初めて自殺を試みて失敗した翌日に、家族へ宛てて書いた遺書だった。この引き出し自体に触れないように過ごしてきたから、存在そのものを忘れかけていた。
しかし、いまの俊幸の死を悲しむ者は誰もいないだろう。雪耶は先立ってしまったし、別れた妻に至っては、修復不可能な関係性にまで落ちてしまったからだ。
この遺書はそんなふたりに宛てて書いたものだった。当時の俊幸はなんて幸せだったのだろう。自分が死んで悲しむ者がいる、という前提で書かれていたのだから。
「馬鹿だな……俺は」
昔の自分を嘲笑うように、不思議と笑みがこぼれる。この青臭い夢物語をもっと見てみたい。好奇心に後押しされ、俊幸は遺書を入れている封筒の口を開けた。意気揚々と折りたたまれた便箋を取り出し、中身を検めようとした俊幸だったが、突如としてその動きが止まった。
「これは……どうして?」
その手紙には、以下のように綴られていた。
愛する父さんへ。
どうか先立つことを、お許しください。
あんたの幸せを心から願っている。
雪耶
俊幸が用意しておいた遺書に、一部書き換えられたそれは、そのまま雪耶の遺書になっていた。
枯れていたはずの涙がぼろぼろとこぼれ落ち、紙に書かれた文字を濡らした。ひっきりなしに流れ落ちるそれを止める術を、俊幸は持ち合わせていなかった。
「雪耶……俺の、雪耶……っ」
俊幸は膝から崩れ落ち、声を押し殺して泣いた。雪耶が生きていた証。癖のある右肩上がりの筆跡は、たしかに雪耶のものだった。
俊幸は何度も手紙に額を押しつけ、文字が滲んで読めなくなるまで涙を流した。それから、ようやく自らの想いと、雪耶の想いを理解した。たとえそれが禁じられたものだとしても。
「……雪耶」
だが、その想いを分かち合う相手は、もうこの世にいない。
俊幸は雪耶の形見を胸に抱き、静かにアパートを後にした。
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