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四の1

 肺が壊れそうになるほど走りまくって国立公園に向かう。小雨だった空からは、線を作る雨がしとどに降っていた。匂いも、音も、冷たさも、梅雨の雨だ。  三分の四拍子のスタッカート。今日はアレグロ。  池の前のベンチに、ずっと見たかった姿は。  ない。嘘……だ。なんで。  俺は周囲を見渡した。あんなに美しかった紫陽花はもうほぼ色を失いかけていた。蛙は見えないし、雨粒は錦鯉と踊らない。夏の匂いがした。でもまだする。  紫陽花の匂いが。  あなたの匂いがする。  紫陽花を掻き分けて無我夢中で駆け抜けたら、もっと人気のない公園の奥に人の姿が見えた。透明なレインコートを纏って鶯と薄墨の長い長い三つ編みを揺蕩わせながら彩度を雨に落としていった紫陽花を慈しむように眺めている。  紫。  彼に向かって走り出す。彼が俺を認めたのと同時にスライディングをかまして彼の前で土下座した。葉が茂っているからふわふわだった。 「ごめんなさい! 本当に! ごめんなさい!」  雨のあわいに彼の驚いた息づかいが響く。俺は顔を上げられない。梅雨の優しい雨がぽたぽた俺のうなじに落ちていく。 「赦されるなんて思ってないけどごめん! 俺が悪い、あなたを傷つけた……! だけど……っ」  ずっと会いたかったよ……! 「……翠くん」  少し枯れた彼の声。沁み渡っていく。聞きたかった。  顔を上げて思わず目を見開いた。  紫、顔色が悪い。やっぱり俺すごく酷いことしたんだ。彼の心を傷つけた。この一週間ずっと彼を悩ませていたのかもしれない。 「ごめ、ん……俺、そんなに……あなたを傷つけてしまった……」 「……違うんです。いいの」  紫は前みたいにくすくすと俺に無邪気な笑みをくれる。その後少し俯いて、俺に向かって不安そうな眼差しを向けた。 「こんなにやつれてしまったけれど、それでもわたしはきみを惑わすことができるでしょうか」  ふざけたように言う彼は以前よりは影があるけれど、あの時のいたずらな姿のままだった。自虐的な彼の言葉が胸に痛くて仕方ない。 「なに言ってんだよ……!」  言質をとってキスをふっかけたあの時の自分が憎い。  

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