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第2話
入社から半年たち、季節は秋。まだまだ日中は暑いものの、夕方はワイシャツだけでは寒いこともある。
喜んでいいのか悲しんでいいのか、僕は元木課長の補佐的な仕事を任されている。主任や係長だっているじゃないか。なんで平社員の僕なんだ。
普通なら主任や係長を差し置いて、と針のむしろ状態になってもおかしくないが、相手はあの元木課長だ。課長の目が、自然と僕に向く。ほかの人はビクビクせずに仕事ができる、というわけだ。だからかえって、主任や係長が気を遣ってくれる。
うちは六十五歳定年だから、このまま元木課長の定年退職まであと三十三年間、僕はビクビクしなくちゃいけないのか。そんな三十三年間を過ごすくらいなら、いっそ転職を考えた方がいいのかなあ。
…いやいや、僕は諦めない。いつか秘書課に転属して、白鳥部長の秘書になって――もしかしたら、元木課長が常務や専務になって、僕が秘書とか…。そんなの地獄だ!
そうやって転職や転属のことを考えているうちに、日にちだけが過ぎていく。
「灰田」
ああ、課長に呼ばれてしまった。さっき出した報告書、あれがまずかったのか。
「何でしょうか、課長」
三秒で課長のデスクに来た僕を見上げ、課長が驚いたような表情をした。
「ああ、手を止めさせたのなら悪かった。用事ではないんだが」
「はあ…」
課長の口元が緩み、優しい笑顔になった。入社式のときに、たった一度だけ見た笑顔だ。
「お前は字がきれいだな。大きさや字間もきちんとそろっている」
ええーっ! 課長が褒めた!
夢じゃないだろうか!
「そう言おうとしただけだ。悪かったな、わざわざ呼んで」
課長の笑顔をまじまじと見つめてしまい、僕は慌てて頭を下げた。
「あ、あの…、ありがとうございます!」
翌日、課長が書類を見ながら、机を指でトントンしている。あれはミスがある証拠。計算ミスだろうか。さらに課長は、周囲に聞こえないほどの大きさで、舌打ちをした。あれは変換ミスだろうか。
「吉岡!」
「は、はい!」
案の定、先輩が怒鳴られた。企画会議に使う資料だから、余計にミスは許されない。こっぴどく叱られた吉岡さんは、急いで資料の訂正をする。
「灰田」
今度は僕だ! 立ち上がって気をつけの姿勢で課長の方に向く。
「はい、何でしょう」
「アンケートと統計のデータはまだか?」
課長が眼鏡のブリッジを指で押し上げた。あれは、返答次第で怒鳴られる。
「はい、今まとめています」
「早くしろ。週明けに午後一で企画会議だからな」
「はい! 急いで仕上げます!」
ユーザーのアンケートやアクセスなどの統計が、企画部の会議で資料として使われる。でき上ったら十二部ずつコピーを取らないといけない。
なんとか仕上がってプリントアウトしたのは、終業十分前。課長にOKをもらったら、あと十一部ずつコピーして、ステープラーで止める。間に合いそうだ。
「元木課長、資料ができました」
課長に三枚のデータを見せる。僕は閻魔様のデスクの前で、極楽行きか地獄行きかを待つ。僕はまるで死んだ魂だ。この瞬間は生きた心地がしない。
…あーあ…地獄行きだな。課長が大きく息を吸って、吐く。呆れているときの癖だ。
「灰田!」
オフィス内に課長の怒鳴り声が響く。みんなもきっと驚いてるけど、こっちを見たりしたら“何見てるんだ?!”ととばっちりを食うから、自分の仕事に没頭する。
「こんなものが資料になると思うか! “よくわからない”と書かれた回答が参考になるのか?! 具体的に何がわからないのか書いてある回答は無かったのか!」
ユーザーの正直な本音、としていくつかピックアップしたけど…もっと目を通しておくべきだった。
「それにこれ! 年齢と性別だけじゃ駄目だ! 居住地と職業別、こっちの資料には収入別のグラフも入れろ!」
あっちゃぁ~…。要領がよくわからなかったから、統計だけをまとめたんだけど…やっぱりまずかった…。
「セグメンテーションの大切さは研修で習っただろう! その上でターゲティングができなければ、よそとの競合で負ける! マーケティングの基本だろうが!」
あああ…週明けは早めに出勤しないと…早起き地獄だ…。
「おーっ、元木ぃ~。相変わらず怒鳴ってんなー」
なんと白鳥部長が、うちの課に来た! 相変わらず素敵な笑顔だ。まるで天使が降臨したみたいに、周囲が明るく輝くようだ。
「何ですか、白鳥部長」
白鳥部長は元木課長の肩を抱いた。
「もー仕事は終わりだろ? 敬語なんて使わなくていいからさぁ、今日は飲み行こうぜ元木ちゃん」
書類を引き出しにしまい、片付けをしながら元木課長が“そうだな”と答える。
「企画部の奴らも三人ほど行くからさ、…えーと…、灰田くんだっけ?」
名前を呼ばれてドキリとした。白鳥部長が、僕を見て微笑んでる。
「あ、はいっ」
僕の名前を覚えてくれているなんて、夢じゃないだろうか。
「君もおいでよ。元木の下にいるんだからさ、親睦を深めるためにも」
部長から誘われたー! 夢なら覚めないでー!
しかし、親睦を深めるならば、元木課長よりも白鳥部長の方が――
「駄目だ」
“はい!”と返事をしようとしたが、元木課長の方が早かった。
「灰田、さっきの資料を今日中に仕上げろ。月曜の朝一で俺がチェックするからな」
ええええーっ! 会議は月曜の午後だから、午前中にできていればいいはずなのに…。
けど、課長には逆らえない。
「は…はい。残ってやり直します」
と、手にした資料を白鳥部長がヒョイと取り上げた。
「この資料って、来週の企画会議の?」
「あ、はい、そうです。市場調査の資料です」
「やり直すんならさ、月曜の午前中でいいだろ。会議は午後からだし」
さすが部下から慕われる白鳥部長!
と思いきや。すかさず元木課長が立ち上がる。
「駄目だ。月曜に作っていたら、俺がチェックする時間が無い。今日中にできていれば、修正箇所を午後までに直せるからな」
あああ、課長は鬼か悪魔か。白鳥部長も“じゃあ仕方ないな”と引き下がる。もともとは僕のミスだから、課長を怨んでもしょうがない。
白鳥部長がせっかく誘ってくれたのに、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「あの…白鳥部長、申し訳ございません」
「いいっていいって。じゃ、駅前の『くろ田』っていう居酒屋だから、終わったら顔覗かせてよ。もし二次会行くとしたら、店員に伝言頼んどくからね」
白鳥部長にお礼を言い、僕は作業を始めた。
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