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第9話

 エトワール鈴木はこんな物を僕に渡して、何をさせようというのか。僕と課長が――そう考えたら、耳まで熱くなる。 「灰田」 「はいっ!」  急に呼ばれて、体が硬直した。“気をつけ”の形になったせいで、局部が丸出しだ。慌てて、エトワール鈴木に返してもらったパンツを穿いた。 「あのケースを外した者が…こんな口うるさい俺で悪かったな。迷惑だろう」  元木課長は僕から視線を外して、気まずそうに言う。 「い、いえっ、むしろ感謝してますっ。外してくださったのが、課長でよかったですっ。ありがとうございます!」  頭を下げたら、顔に一気に血が上る感じがした。 「灰田…意味がわかって言ってるのか? こんな俺が――だぞ?」 「はい、わかってます! 課長が怒鳴るのは、ミスをしたり僕に悪い部分があるからで…。決して感情や苛つきで怒鳴る人ではないことを、僕は知ってます!」  課長がまた、何度目かの驚いた顔をした。 「実際、課長に注意された後は、同じミスを二度としません。今日の残業だって仕上がったのを見れば、資料とはこういうものだってことを学習できて、いい機会だったと思ってます」 「あ…あれは…その」  課長が頬をかきながら、バツが悪そうに言う。 「白鳥が以前からお前を狙っていたのを、知っていたからな。何とか、あいつのアプローチから回避させようとして…。あいつは遊び人だから」  そうだよな、あれだけ背が高くてカッコよくてイケメンで将来有望な人が、僕みたいな何の変哲もない一般人など、本気で誘うわけがない。 「いや、それは言い訳だ。灰田を…取られたくなかった…」  白鳥部長だけじゃない。背が高くてカッコよくてイケメンで将来有望な人が、ここにもいたんだ!  そんな課長が…どうして僕なんか…。 「あ…あの…課長、どうして…何の取り柄もなさそうな僕…なんて…」 視界が暗くなった。課長に抱きしめられている! 課長…細身だと思っていたけど、意外に胸板が厚そうだ…。 「灰田、お前はいい所だらけだ。真面目で努力家だ。いざというときには、力を発揮できる。それに、正直者で嘘はつかない。陰口も叩かない。字がきれいで、整理整頓ができる」  いっぱい褒められて、顔がもっと熱くなる。課長は僕のことを見ていてくれてたんだ。  そうだ、僕だって課長のことをずっと見ていた。書類とかでミスを見つけたときの、机を指でトントンする癖。怒鳴る前のため息。ああ、そういえば、課長の眼鏡のフレームが、先週とは違う。同じ黒のセルフレームだけど、テンプルが銀色だ。 「最初は可愛い部下だと思っていた。だが、いつの間にか…。俺は不器用だからな、いつも叱ってばかりですまなかった」  抱きしめられている背中が、課長に触れている頬や胸元、全てが熱い。僕は課長のことが…。 「灰田」 「はいっ」  課長に呼ばれて、胸の中でくぐもった声で返事をする。呼び方が、微妙に違う。いつもみたいに、キリッとした感じではなく――少し迷っているみたいな、弱々しい感じだ。 「嫌なら、押しのけてくれていい。嫌がるお前を抱きしめていたら、セクハラになるからな」 「いいえ」  僕は課長のワイシャツを、ギュッとつかんだ。 「嫌じゃありません。嬉しいです。ずっと…こうしてほしいぐらいです」  うわぁぁぁ、言っちゃったよ。もう、後戻りはできない。もとより、後戻りする気はない。 「それはできないな」  少し意地悪な、含み笑いが混じった声。どういうことだろうと顔を上げると、唇が下りてきた。いきなりのことで、思わず息を止めて歯を食いしばってしまった。僕の硬く閉じた唇を、柔らかな舌がなぞる。その甘い誘惑に、僕の緊張は解けた。脱力すると、唇の間から課長の舌が入ってきた。口中を舐め回されるかと思ったら、僕の舌にタッチして、舌は出て行った。 「ずっと抱きしめたままだと、その先ができないだろう?」  激しくないエロティックなキスに、殺し文句。ヤバい、ドキドキがおさまらない。  それに加えて、眼鏡を外して目を細めたりなんかして…。課長が眼鏡を外したところ、こんな間近で見るのは初めてだ。きっと、眼鏡の無い課長を一番長く見るのは、僕なんだ。こんなにセクシーな顔、ほかの誰にも見せたくない。 「課長…」 「何だ?」 「眼鏡を外した顔…カッコいい…」  ククッと課長が笑う。喉仏が動くのもセクシーで。 「二人っきりのときには外そうか? 風呂と寝るときには外すから、見たくなったら泊まりに来い」  うわぁ、もう舞い上がって倒れそう。普段はあんなにストイックなのに、結構軟派なことも言うんだ。 「ところで、あいつがくれた瓶、何だったんだ?」  ピンク色のアンティークな小瓶を僕の手からヒョイと取り上げ、課長はラベルを読んだ。 「…なるほど、ローションか…。じゃ、今から使ってみるかな」 「い、今からって…あの…」 「この状況で、何もせずに終わるわけがないだろう」  課長に腕を引っ張られ、隣の部屋に入った。部屋の電気はつけず、奥にある何かのスイッチを入れた。暗い部屋に丸い光が灯る。ルームランプだ。淡い光に包まれているのは、セミダブルのベッド。ここは課長の寝室なんだ。どうしよう、今さらになって緊張してきた…。

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