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第42話 それはまるで台風のような

 過ぎたことなのにまだ身体がぞわぞわとする。同性の相手から向けられるあからさまな性的感情。あの瞬間は怖くて怖くて声も出せなかったが、いまはそれを上回る気持ち悪さがあった。  電車で痴漢に遭って声が出せない女の子の気持ちを身をもって体感してしまった。ふるりと肩を震わせて光喜は記憶を追い出すように首を振る。 「光喜、大丈夫かぁ?」 「……大丈夫なわけないじゃん!」  ふいに身を屈めた晴の顔が視界いっぱいに広がった。心配そうな顔ではあるが、光喜は目の前にある顔を両手でつまみ横へ引っ張った。柔らかい頬が伸びて少しばかり不細工な顔になる。けれどそれでも気持ちが収まらなくて手のひらで額を叩いた。 「いったいなぁ」  思いきりよく叩かれた晴は体勢を戻して前を向く。そして額を押さえながら口を尖らせた。  あれから店を出て、いまは二人で来た道を戻っているところだ。外灯だけが頼りの暗い裏道は人通りがなくて静まり返っている。二つ分の足音がやけに響くような気がした。 「光喜はバイってわけじゃないみたいだけど、心配するなって、クマさん好きならイケるって」 「すっごいそれ適当だよね」 「いやいや、愛は性癖を越える! 問題ないなーい!」 「ちょっと声デカい、うるさいよ」  おそらく気を使って茶化しているのだろうとわかっていても、光喜の口からはため息しか出てこない。もしそういうことになったら自分が受け手なのだろうなと想像はしたけれど、先ほどの嫌悪感が強烈過ぎて尻込みしてしまう。  いざという時に怖くなってしまったらどうしよう、なんて考えが浮かぶ。どストレートに生きてきた光喜にとって、男に迫られる場面は想定されていない。 「とりあえず、クマさんでヌケたら後ろも挿れられるって! 初めてでも気持ち良くなっちゃう子が多いから、まずは試してみろって」 「無責任な発言はやめてよね」 「なんなら俺がしてやろうか? 安治よりマシでしょ」 「いらない!」  軽い足取りで前に立ちはだかった晴を光喜は眉間に深いしわを刻んで睨み付ける。けれどムッと口を引き結ぶと呆れた声で仕方ないなぁと呟いて晴はひらりと身をひるがえした。そして肩をすくめてのんびりとした足取りで歩き出す。その後ろ姿を見ながら光喜は重たい足を動かした。 「マ、ジ、で! ちゃんとやれよ。いつ押し倒せるチャンスがあるかわかんないんだから」  駅に着くと晴は黒いビニール袋を押しつけてくる。その中身を考えると突き返したくて仕方がないが、無理矢理に握らされた。そして人差し指を光喜の胸に突きつけてきて、念を押すように今日帰ったらすぐ、などと言われる。 「ちゃんとやり方はあとで送ってやるから」 「……やだ」 「みーつーきー! クマさんを落としたいんだろ! 好かれてるみたいだし大丈夫かな? とか思ってると、遠回りな相手は待ってたら年単位で告白を見送られるからな!」 「うっ、まあ、そうかもしれないけど」 「男だろ! 根性見せろ」  じっと正面から目をのぞき込まれてそらすにそらせない。言われていることは間違いではないとわかるものの、自分の常識を飛び越えていかなくてはならない現状に顔が歪む。けれどひどく苦い顔をする光喜の額を晴は指先でぐりぐりと押した。 「光喜、自分の固定観念を飛び越えちゃうくらい好きなんだろ? 躊躇ってるうちに繋がれるはずの縁が消えることだってあるんだぞ。好きって感情も一期一会だ、それを忘れんな」 「……晴」 「まあ、とりあえず、手っ取り早く酔い潰せ! 寝込み襲って既成事実だ!」 「ちょっと! いまの感動返して!」 「じゃあ頑張れよ! 経過報告を楽しみにしてる。そんじゃ、ばいばーい!」  真剣な顔を一変、にんまりと笑った晴はあ然とした光喜にペロリと舌を出した。そして素早く駆け出すと片手をぶんぶんと振って改札の向こうへ行ってしまう。人波に紛れた晴の背中はすぐに見えなくなった。 「なんかめちゃくちゃ振り回された気にしかならない」  力尽きてしゃがみ込みたい気持ちをなんとかなだめすかして仕方なく光喜も改札へと向かう。片手にぶら下げたビニール袋にやたらと重みを感じるのは気のせいにした。

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