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第1話 濡れる前髪

 ぼんやりと見えたのは緑色の塊と、その陰で動く白い塊。  ただでさえ視力が悪いのに、その時は裸眼だった。しかも夕方で、極めつけに朝から霧雨が降り続いていた。  そんな総てが曖昧な世界に、彼はいた。  白い塊から黒っぽい何かが勢いよく飛び出してきた。足元をすりぬける瞬間のそれだけははっきりと見えた。猫だ。猫が走り去った先を見届けて、元の向きに戻って驚いた。すぐ目の前に見慣れない男がいたからだ。  男の白いパーカーを見て気付く。さっきの白い塊はこいつか。確かこの公園には紫陽花の植栽があり、その根元に野良猫がいるのを時折見かける。つまり緑色の塊は花の時期を過ぎた紫陽花、その横にこの男がしゃがみこみ、猫にちょっかいでもかけていた……といった場面だったのだろう。  男は俺を見下ろし、いきなり「餌やりしてるの、あんたか?」と聞いてきた。 「いや、違うけど。餌やりなら、昼間は定年退職して暇を持て余してるって感じの爺さん、夜中は仕事帰りのホステスがやってるのを時々見る。俺はやってない」 「詳しいな」 「そっちこそ、今、何してたんだ?」 「餌やり」 「なんだよ、自分がやってるんじゃないか。でも、禁止だろ、確か」野良猫への餌やりは条例で禁止されている。そんな意味の貼り紙を見た記憶がある。 「禁止されてるのは不必要な餌やりだけだよ。僕は正式な地域猫のボランティアやってて、ちゃんと去勢手術を受けさせて、置き餌はやらない。今の猫もそう。餌を食べ終わるまで見てやるつもりだったんだけど……あんたが来たらそっちに向かって行ったから、てっきり懐いてるのかと」 「びっくりして逃げたんだろ。悪かったな、邪魔して」 「いや、別にあんたのせいじゃない」 「疑ってたくせに」 「……悪かった。缶詰みたいなの持ってるだろ、そんなのバラまかれたら困ると思って」 「ああ、これ?」俺は傘を持っていないほうの手で、レジ袋を持ち上げた。「これは人間用。俺の夕食」  よれたTシャツとハーフパンツ、サンダル履き。無精髭を生やし、ぼさぼさの長髪を適当に結わえている。そんな風体で骨が一本曲がったビニール傘を差し、缶詰ひとつだけのレジ袋をぶらさげて雨の公園に現れた男。それが俺だ。どう見ても不審人物だ。「野良猫に不必要な餌やりをする人」と疑われる程度で良かったと思うべきだ。 「呼び止めてすみませんでした」最後だけ丁寧にそう言って、男はペコリと頭を下げた。「餌、片付けてこないと」そして、すぐにまた紫陽花の元へと向かう。  何の気なしに、俺はそれに続いた。彼はさっきのようにしゃがみこみ、餌の皿を回収すると立ち上がった。 「毎日そんなことやってるのか?」と尋ねてみる。 「来られる時だけ。本当は毎日来たほうがいいんだけど」 「そう暇じゃないよなあ。学生?」 「いえ……はい」 「どっち」 「浪人生」 「ああ、そういうこと」 「そっちは」彼は言いかけて、気まずそうに黙りこんだ。 「きちんと働いてるよ、こんななりだけどさ」俺が笑うと、彼も安心したように笑った。この距離なら表情も分かる。そして、その前髪が濡れているのも見えた。「傘は?」 「このぐらいの雨なら平気」 「いやいや、結構濡れてるぞ。ああ、そうだ、この傘やるよ」俺は骨の曲がったビニール傘を突き出す。 「大丈夫ですって」 「家、近いのか?」 「……そうでもないけど、こうしていくし」彼はパーカーのフードを被った。 「それだけ濡れてて、今更そんなことしたって意味ないだろう。いいって、仕事場はすぐそこだから、俺のほうはなんとかなる」傘を押し付けると、彼は仕方なさそうにそれを手にした。 「じゃあ、そこまで送ります。そしたらあんた、濡れないでしょ」  彼は傘の下に俺を入れた。元は俺の傘なのに「送る」も何もないと思うが、そうでもしないと気が済まないらしいので、彼に従うことにした。  仕事場は公園の目と鼻の先だ。ガレージのシャッターを開けようとする俺を見て、彼は不思議そうに「ここが仕事場?」と言った。 「長期で海外に行ってる知り合いに格安で借りてるんだ。中はリフォームしてあるけどね」シャッターを地面から1.5mばかり押し上げて開け、腰をかがめて中に入る。つられるように彼も入ってきた。入った後にはシャッターを下ろす。 「うわ」  彼が驚くのも無理はない。ガレージの中には車なんてない。あるのはキャンバスとイーゼル、それからデジタル作業用のパソコンデスク。床には画材が散乱し、歩くには少々注意が必要だ。「アトリエ……と言ったら格好いいけど、そんなにいいもんでもない。ちょっとしたアイテムのパッケージとか、イベントのロゴやキャラクターなんかをね、デザインしてる」俺は小物入れの中から眼鏡をつかみとる。ようやく世界がはっきりと見えた。  初めて明瞭に見えた彼の顔は、顔立ちとしては可もなく不可もないといったところだが、前髪を指先でつまみ、濡れ加減を確かめようと自然と上目遣いになる目元がちょっといい感じだ。色っぽさと清々しさが同居しているようで。

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