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第5話 くるぶし
「どうかした?」言いながら、俺は紅茶を彼に渡した。
「上手いねって言われると落ち込むんだ、最近」
「君が?」
「上手いとかすごいとか……素人なのに上手いね、若いのに三味線なんてすごいねって意味にしか聞こえない。それって純粋な評価じゃないでしょ」
「まあ、その通りだから仕方ないよねえ」
「……きついこと言いますね。落ち込むって言ってるのに」
「それは言う人の問題じゃなくて、君の問題だから。君が自分を素人に毛が生えた程度だと思ってるうちはそう聞こえるし、若造だと思っているからそう聞こえる……じゃない?」
「分かってますよ、それぐらい」
「じゃあ何? おじさんに慰めてもらいたかったってことなのかな」
「シズカ先生だってそうやって自虐するじゃないですか」
「シズカ先生はやめろって」
「ゲン先生?」
「いや、やめてほしいのは"先生"のほう。シズカでいいよ。訂正するのは煩わしいけど、名前自体は気に入ってるんだ。で、自虐って?」
「自分のこと、おじさんって言う」
「36はおじさんだろ」
「名前分かったからネットで検索したけど、本当にその年なんだ。若く見える。20代かと思った」
「本当に若い人は、そうやってすぐネット検索する。俺はしない。何故ならおじさんだから」
「検索するのはおじさんだよ。若者はSNSで聞いて誰かに答えてもらう」
「だとすると検索した周くんはおじさんってことになるけど?」
「すぐ知りたかったんだ。玄さんのこと。答えが待てなかった。だから」
「俺のことが知りたかった?」
「うん。びっくりした。賞もいっぱい獲ってて」
「……若い頃にね」
フォローのつもりで言ったその言葉に、彼は深い溜息をついた。「やっぱり若い時からそうじゃないとダメですよね。音楽も……いや、音楽のほうが、かな。若いうちに賞獲りで勝ってないとダメで」
「ダメってことはないだろ。そりゃあポスターにソリストとしてドーンと名前が載って、その名前だけでチケットがバンバン売れるような、そういう演奏家になるためにはそういう要素は武器になるかもしれないよ。でも、君はそういう人になりたいの?」
「だから、分かってるって、そんなこと!」周は声を荒げ、机を叩いた。彼の手元に投げつけられるものがあればそうしたのだろうが、生憎そこには彼の顔を描いたコピー紙しかなかった。
俺はそんな彼を更に逆撫でする言葉を、そうと知りながら口にする。「若いねえ」
彼は口を真一文字に結んで、俺を睨みつけた。少しでも気を緩めれば俺に対する罵詈雑言を吐き出してしまいそうなのをこらえているに違いなかった。
「その絵ね。君を描いた、それ」
「これが何」彼はブスッと顔を背ける。
「我ながら良い出来だと思った。初めて描いたにしては」
今度はハッとした顔で俺を見る。「初めて?」
「そう、自分からこの人を描きたいと思って描いたのは初めて」
「本当に?」彼の表情から怒りの感情が抜け落ち、好奇心が前面に出てくる。
俺は彼の近くに寄り、彼の顔を描いた一枚を目の高さにまで持ち上げた。「これなんか、実によく描けてる。絵描きの、モデルへの愛情がよく伝わるね」
「は?」
「これもね」次に想像で描いたくるぶしを指差す。「君のくるぶしを想像した。こういう形だろ?」
「くるぶし?」そう言いながらも靴を脱ぎ、靴下を脱ぐ愚直さが愛しい。「うん、確かにこうなってるけど、でも、くるぶしに違いなんか」
「違いなんかない? そうかな? 俺のはこう。筋張ってて、骨が尖ってるのが目立つ」俺はサンダル履きだから、素足を見せるのは簡単だ。
「……本当だ」周は俺のくるぶしに触れた。
「自分の身体の形すら、大抵の人はよく知らない。背中とか自分じゃ見えないところなら仕方ないけど、くるぶしなんて見ようと思えばいくらでも見られるのに、見ない」片足を上げた姿勢がきつくなり、俺は元のようにサンダルに足を戻す。
「それは何かの暗喩 ?」
「難しい言葉を使うね。そんな大した話じゃない。言葉通りだよ。見えているものを見ない人が多いから、俺はそれを見せてやってる」
「それが絵描きの仕事?」
「俺の仕事。君の仕事はなんなんだろうね。君に誰に、何を聴かせたいんだろう」
周はぽかんとして、それから、ふふっと笑った。「アーティストっぽいこと、言ってる」
「またそんな言い方して」
机の上の自分の顔のラフを見ながら、彼は言った。「考えてみるよ、もう一度。何度も考えたつもりだけど、見えてるつもりで見えてなかったこと、あるかも」
「うん」俺は彼の肩に手を置く。その手に、彼の手が重ねられる。
「まずは、玄さんに、聞いてほしいことがあるんだけど」
「何?」
「……今は雨音が騒がしいから、止んだらね」
強い雨だからシャッターは閉め切っていて、雨音なんか聞こえない。
でも、雨が上がるまでの時間が必要な言葉を、彼は言おうとしているのだ。
その言葉が聞けたら。
その言葉が、いま俺が期待している通りの言葉だったら。
今度は俺が彼に言おう。
――あの白いキャンバスに、君の――
(完)
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