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第4話 シズカとアマネ

 それから初対面の時の少し不機嫌そうな彼の顔。お茶を受け取る時の素直な笑顔。案外普通ですねと言い放った時の澄ました表情。ここに来るのに口実など要らないと伝えた時のはにかんだ顔。Tシャツを伸ばした腕は少し内側に曲がっていて、いわゆる猿手だった。着替える時に見えた程よく筋肉の付いた上半身。腰をかがめてシャッターをくぐる背中のカーブ。それらを思い出しては描いた。  更には、まだ見たことのない彼のうなじやくるぶしを想像する。気が付けば10枚以上のコピー紙に彼のパーツがびっしりと描き込まれていた。 「気持ち悪いな、俺」そんなことをひとりごちる。  何かに。特に「誰かに」執着したことがなかった。  友人はいる。尊敬している師もいる。家族仲だって悪いわけではない。  恋人もいたことはある。  それでも、その人のことを想うと夜も眠れないといった感情は抱かなかった。別れを告げられれば、残念だとは思ったが引き留めたいとも思わなかった。  コピー紙の彼の顔を眺めているうちに気付く。そんなかつての恋人たちの絵は、一枚も描いたことがない。ラフスケッチすらも。「いつか私の絵を描いてね」そんな風に言ってくれた人もいたはずなのに。過去に描いた人物画、そこに描かれているのはどれも、あらかじめ用意されたモデルばかりだ。  自分から描きたいと思って描いた人物。  それは、このコピー紙の彼が初めてだった。  翌日は豪雨だった。これでは餌やりは無理だろう。俺にしても仕事場に行くのが億劫で、普段より遅い時間に家を出た。例の公園にさしかかると、いるわけがないと思いつつ、紫陽花の辺りを見てしまう。今日は自宅から眼鏡をかけてきたから、ちゃんと見えるのだけれど、やはり公園に人影はない。ただ、紫陽花の脇には妙なものがあった。傘が宙に浮いているのだ。俺は園内に入って、紫陽花に近づいた。  傘は紫陽花と隣の木の枝を橋渡しするようにかけてある。その下には段ボール箱。おそらくは野良猫が雨宿りできるようにと、誰かがしつらえたものだろう。  ふと胸騒ぎがした。ここに傘があるならば、「彼」は今、傘がないのではあるまいか。だとしたら。――ガレージには雨宿りできる庇などはない。  俺は急いで仕事場に向かった。当然閉まっているシャッター。その前に佇む彼の姿は、すぐに分かった。 「あ」と同時に声が出た。  ずぶ濡れの彼……は、予想に反していなかった。彼はきちんと傘を差していた。  俺は急いでシャッターを開け、前日と同じように彼を招き入れた。 「洗濯して返そうと思ったんですけど、今日も雨だから無理でした」  突然そんなことを言うので、一瞬意味が分からなかった。 「ああ、昨日のTシャツか。いいって、あげる。気に入らないなら部屋着にでも」 「気に入ってます。だから、もったいなくて」 「じゃあもらってよ」 「ナラハシ・ゲンなんて有名な人の作品、ただでもらえないです」 「え、なんで俺の名前を?」 「Tシャツにサインがプリントされてた」言われてみれば単純な話だった。手がけたイラストには Gen Narahashi と書き添えている。「本名?」 「本名の音読み。ゲンは玄米の玄と書いて、シズカと読む」 「読めない」 「読めないだろ。音だけだと女性と間違えられるし。だから、ペンネームはゲン」 「分かる」 「分かる?」 「僕、(あまね)って言います。校庭十周のシュウでアマネ。元は男につける名前らしいけど、響きで女の子と間違えられる」 「アマネくんか」 「シズカ先生」 「やめてよ」俺は昨日と同様にキッチンに立ち、お湯を沸かす。緑茶に手を伸ばしたが、気が変わる。「コーヒー、紅茶、緑茶、どれがいい?」 「紅茶」 「ミルクと砂糖は」 「両方」 「了解」  準備をする俺の背後に、周が立つ。「僕がやりますよ」 「いいよ、俺はコーヒー飲むけど、自分で加減したいから」 「そういうの、人に任せたくないタイプですか」 「うん」 「あんなサンドイッチ作るのに、そこはこだわるんだ?」 「そうだよ、悪かったな、偏屈オヤジで」 「いいんじゃないすか、アーティストらしくて」  それじゃもはや「アーティスト」は揶揄の言葉でしかないじゃないか。そう思って顔を睨みつけてやろうとすると、周は笑いをこらえていた。わざとか。分かっていて、わざと言っているんだ、この子は。  紅茶を淹れ終わって振り返ると、そこに周の姿はなかった。初対面の時もそうだが、時折気配が消える子だ。まるで猫。あるいはどこぞのスナイパー。 「これ、僕?」  昨日のままの机には、彼の顔やらくるぶしやらが散らかっている。 「あ、ごめん」 「なんで謝るんですか」 「勝手に描いたから」 「いっすよ、別に」周が一枚を手に取り、顔に近づけて凝視した。「やっぱり、すごいですね。すごく上手い。あ、プロに上手いなんて失礼かな。けど、他の言葉思いつかない」 「どんな言葉だって、褒められたら嬉しいよ」 「……ですよね」彼は紙をそっと戻した。

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