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第9話

 思わず表情に出る前に唇を噛みしめたフィーデスだったが、また制服の裾をくいくいと引っ張られて床へと視線をやると、イーリが必死に裾を引っ張っているところだった。タヌキに似たその顔は全体的には茶黒くて小さな目も分かりにくいが、抱き上げると「きゅー」と鳴く。暴れるようにフィーデスの手から逃れると、また裾をぐいぐいと引っ張ってきた。行こう、とでも言っているように。 「イーリ、ご主人様が心配だからって、フィーデス君は巻き込まないんだよ。マスターだってちゃんと分別ってものが……たぶん、あると思うし」  きゅー!!とまたイーリが騒いだ。フィーデスが問うような眼差しを兄弟子に向けると、フェリの相手をしながらわざとらしく困ったという顔を見せてくる。 「ええと、エウレはエレメンツの摂取をしないで術を扱えるのは知っているよね? 多分、君の前でも使っていると思う。で、さっきも言ったけど血を浴びたりなんかすると一気に消耗しちゃうみたいで倒れるわけだよね。気力みたいなものが枯渇しちゃうっていうか。それを手っ取り早く回復させるには、気を移すというか……ね? いつもは放置しているんだけど、今日は親方がやけに張り切っているし……いてっ」  あはは、と乾いた笑いを立てる兄弟子にイーリが噛みついた。鋭い牙を持たないので血は出ていないようだが、のんびりとした穏やかな生き物だと思っていたイーリの怒りに兄弟子がぺこぺこと謝っている。そしてまたぐいぐいとイーリに引っ張られると、フィーデスはようやく立ち上がった。 「なんだろうな、イーリはエウレの分身みたいな奴だから……エウレは君に傍にいてほしいのかもね。エウレの部屋は上にあがってすぐの部屋だよ。マスターがいても気にしなくて大丈夫、あっちで説明受けて~」  ついでと言わんばかりにフェリからも頭に猫パンチを受けながら兄弟子がひらひらと手を振ってみせる。  戸惑いながらイーリについて暗い階段を上がっていくと、何かが破裂するような音が聞こえた。イーリはそれを聞くと驚いたように跳ね上がり、とててて、とフィーデスを置いて階下に戻っていってしまう。二階は光を放つ石に術をかけられているようで、思ったよりも明るい。暖色の光は僅かに開いた扉からも零れていた。念のため扉を叩くと「はあーい」と明るいマスターの声が返ってくる。  許可を受けたものということにして部屋の中に入ると、寝台に寝かされたエウレに被さるようにしていたマスター――シヴィが上体を起こす。普段は冗談ぽく笑ったりするところばかり見ていたせいか、一瞬見せた表情にフィーデスは気を張る。それはまるで大事なものを護っている竜のような――そんな鋭い眼差しに思えたのだ。そう思えたのも一瞬で、あっさりと上体を起こすといつものようにへらっとシヴィがマスターの顔に戻る。その腕には複数の擦り傷ができていて、先ほどの破裂音の正体が分かったような気がした。 「本当は口からでも気を入れてやれば回復早いんだけど。まーた拒絶されちゃったわ。フィーくん、悪いけど傍にいてあげてくれる? ご飯食べたらすぐに交替するから」 「軽く食べましたので。後は私がついています」  そう? と返したマスターの目が一瞬細まったが、すぐに笑顔を浮かべると兄弟子同様にひらひらと手を振って部屋を出ていく。  悪夢でも見ているのか、眉間にしわを寄せているエウレの額にそっと触れた――その手を、いきなり掴まれた。  寝ているとばかり思ったエウレの紫の瞳が怒りに満ちながらこちらを睨んでいる。 「俺に触るな」  裏切り者、と言外に吐き捨ててくる。  上体を起こし、そのまま寝台から降りようとしたエウレだったが足に力が入らないらしく寝台から転げ落ちそうになったのをフィーデスが手を貸したが、即座にその手は払われた。 「……俺に触れるな! 俺のことを化け物だと、哂うくせに……!!」 「笑ったりなんかしていません!」  床に座り込みながらなおも威嚇してくるエウレの肩が震えていることに気づいて、フィーデスは冷静な自分の仮面が即座に剥がれ落ちていくのを知りながらも思わず強い口調で言い返していた。そのまま膝をついて座り込んだエウレの細い両腕を掴むと、怒りの中に怯えを含んだ紫の瞳と相対する。 「そして貴方のことを裏切ったりもしていません、絶対に――守護精霊にかけても。何があったんですか、十年前に」 「……俺がキマイラだってことを知っていたのは、お前一人だけだった」  ぽつり、とエウレが返してきた言葉に、フィーデスは驚きで目を瞠った。

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